2006年3月26日 「十字架の希望」

出エジプト記24:12〜18/ヨハネ福音書18:28〜40

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『わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。』 (ヨハネ福音書18:37)

<イエスの目的>

 今日のヨハネ福音書の36節を見ると、「私の国は、この世のものではない」というイエスの言葉が記されています。勿論イエスは、天において成っている「神の国」が、この地においても至るところで成っていくように全力を尽くされました。しかし力ずくで実りを得ようとはされなかった、ということです。目的のためには手段を選ばずというのではなく、「神の国」に至るひとつひとつのプロセスを本当に大事にされた、ということなのです。たとえ最終的に目的を完全に果たすことはできなくても、「神の国」に至るひとつひとつのプロセスをていねいに積み重ねていくことで充実した生涯をイエスは歩まれた、と言うことができるでしょう。

<イエスの最期>

 しかしこの時、「自分たちの期待が裏切られた…」と感情的に高ぶっていた群衆を誰も止めることはできませんでした。「イエスではなくバラバを許してほしい!」と声高に叫ぶ声に押されて、「何の罪も見いだせなかった」イエスをピラトはムチ打たせ、十字架に向かわせたのでありました。このようにしてイエスは一歩また一歩と十字架刑へと向かわれたのでありましたが、しかし、「自分は神の国の王である」という自覚を持ちながらも、十字架の上では壮絶な苦しみを味わい悲惨な死を迎えることになっていきます。それはまさに「絶望」・文字通り、「一切の望みが絶たれた」としか表現しえないような情景でありました。マルコによる福音書15章の37節を見ると「イエスは大声を出して息をひきとられた」とあります。しかしルカによる福音書23章の46節を見ると『イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」』、とあってルカはマルコ福音書15章37節をこのように解釈した、ということがわかります。つまりイエスはすべての望みが断たれ、思わず「なぜ、見捨てたのか」と叫びながらも最後の最後には、神に自分の全てをおゆだねになった、ということです。具体的には何の望みもない中で、なお、神にゆだねることに希望を見ていた、ということなのです。

<十字架の希望>

 受難節のこの時、私達一人一人に示される十字架の希望とはいったい何でありましょうか。それは、すべてを失ってもなお、向こうから一方的にさしてくる光のことなのではないでしょうか。絶望の中で枯れるほど涙を流しながらなお向こうから一方的にさしてくる光、これが十字架の希望であります。だから教会とは決して無理して笑うような、笑わなければならないようなところではないと私はつくづく思うのです。むしろ教会は、本当に心から安心して泣ける場所でなければならないのではないでしょうか。教会が心から安心して泣けるような場所になっていくということ…、お互いに安心して泣けるように受けとめあい配慮しあうということ、また互いの心を聴きあうということ、それが何よりもイエスが大事にされた奉仕の業なのであり教会が目指さなければならないことなのだろうと思います。イエスは、おそらく、自らの共同体に捨てられ、神にさえ捨てられたと感じてもなお、十字架の上でこの光を見続けていたにちがいありません。だからこそ、「わが神わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫びつつも、最後には「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と告白したにちがいないのです。そして神はその告白をしっかりと受け止めイエスを復活させたのです。イエスが十字架の上で、神に捨てられたと感じながらもなお見続けていたこの光を、私達も見つめつつこの受難節を歩んでまいりたいと思います。

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