2006年3月19日 「永遠の命に至る水」

イザヤ書48:1〜8/ヨハネ福音書7:32〜39

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『わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』 (ヨハネ福音書7:38)

<イエスのうわさ>

 今日のこの聖書の箇所には、人々が、だんだんイエスのことを救い主であると信じるようになってきた、ということが記されています。32節に記されているイエスについての「うわさ」は、31節の後半に具体的に記されていますが、それは「メシアが来られても、この人よりも多くのしるしをなさるだろうか」というものであり、つまり、「こんな多くのしるしを行うなんて…。もしかしたらこの人がキリストなのかもしれない」ということでありました。このようなうわさを耳にしたファリサイ派の人たちは、イエスを捕らえようとした、と記されています。そしてイエスは、そのようなファリサイ派の人たちの心を御存知でした。やがて自分は十字架につけられて殺されることになるということもすでに感じておられました。

<「生きた水」>

 そしてイエスは祭りの終わりの日に、本当に大切なことを伝えられます。それは37節以降に記されてありますが…、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」という言葉でありました。39節を見ると、この「生きた水」とは聖霊のことであった、とわかります。イエスを信じる人々が聖霊を受けるのは、十字架の死と復活の後にイエスが天に上げられてからのこととされています。今、イエスは十字架へと向かっておられるのですが、まだその時は来ていませんでした。やがてこの約束は実現されて、弟子達はイエスと離ればなれになるのですが、イエスの霊を豊かに受け継ぎ、主の御業を力強く実践していく者たちになっていくのでした。

<このかわける世界に>

 このような私達の主イエスは憐れみの主である、と言えるでしょう。憐れむという言葉には、そもそも、はらわたがちぎれるほどに痛むという意味があり主イエスの憐れみとは、それほどまでに小さく弱くされた隣人の苦しみを共に痛むという深いふれあいのことでした。そのような憐れみの業がなされる時、いつもイエスの内側から聖霊があふれ出ていたのです。今は天からイエスは、この世界の有様を見つめておられ、そしてきっと、いわれない苦しみや痛みを与えられているたくさんの人達‥、様々な偏見や差別に苦しめられている人達を御覧になり、はらわたがちぎれるような想いをしておられるに違いありません。そのイエスの内側からあふれ出た聖霊が私達一人一人の心に、心の底に注がれようとしているのです。だから天におられるイエスから私達が受け継ぐ聖霊とは隣人の痛み、苦しみに共感する霊なのです。「生きた水」とはそのようにいと小さき隣人と共にこの私を生き生きと生かす水、主イエスから共に憐れまれ隣人と互いに痛み苦しみを分かち合いながら生きていく原動力のことなのです。今、イエスは今日の聖書の箇所を通して私達に呼びかけておられる…、いや、叫んでおられます…、「聖霊を受けよ」と。37節には「イエスは立ち上がって大声で言われた」とあります。この荒んだ世界のただ中でイエスは叫ばれるのです。「聖霊を受けよ…そして何らの差別のない、主の平和が完全に支配する神の国を目指して共に歩め…、」と主は私達に向かって叫んでおられるのです。この主の叫びに呼応して私達も今一度、さらに真剣に主に向きあい、このかわける心に、生きた水を豊かにいただきたいと思います。そしてこのかわける世界に、生きた命の水を注ぎ出す存在へと変えられていきたい…、と願うのです。

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