2006年3月12日 「目覚めて備える」

エレミヤ書2:1〜13/マタイ福音書24:36〜44

←一覧へ戻る

『だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである』 (マタイ24:44)

<忙しさのなかで>

 私たちは今、受難節の中を歩まされていますが、今日のこの聖書の箇所では、この世の終わりの時のこと、その時に起こるイエスの再臨と裁きについて語られています。しかし聖書を読むならば、この世の終わりの時に限らず、今から約2000年前にイエスが神の子としてこの世に来られた時も、また、イエスが苦難の生涯の終わりに十字架につけられ、その後に復活されて弟子達に現れた時も、人々はそのことにほとんど全く気づかなかった、ということが言えるのではないかと思うのです。例えばイエス誕生にまつわる記述を読んでみますと、人々はこの世のことに忙しかった。忙殺されていた、そのような中でイエスは人知れず、馬小屋の中で生まれたのだ、ということがわかります。多くの人が気づかなかった。救い主を求めていながらも、相変わらずこの世の価値観にふりまわされて、忙しく動き回り、人の子が来られたことに気づかなかった、ということがわかります。また復活にまつわる記述を読んでみましても、あのエマオへの途上において弟子たちと共に復活された主が歩んでくださっていたにも関わらず、弟子達は、それが主であることに気づかなかった、一緒に食卓につき、パンを裂いてくださるまで、全く気づくことができなかった、ということがわかるのです。

<復活の時を知る>

 私たちは、この世の終わりの日、終末を待ち望みながら、毎年毎年、受難節を迎え、イエスの復活を記念する日をも待ち望んできました。そして今年も、終わりの時を見据えながら、イースターを待ち望む季節がやってきたのです。確かに私たちは、終わりの時、の場合とはちがって、その時を知っています。今年のイースターは4月16日であります。しかし、それは本当にイースター・復活の時を知っている、ということになるのでしょうか。復活日・イースターとは、暗闇の中で、未だ、救いの完成は遠くても、御子の復活の故に、必ずいつかこの御子が、救いの完成をもたらしてくださるのだ、ということを信じ、感謝し、再び、この御子と共に再生の新しい歩みを踏み出す、そのような時です。そして平和のうちに義の実を蒔く、ということ、上からの知恵を頂きつつ根気強く義の実を蒔き続けることが求められているのです。

<目覚めて備える>

 受難節のこの時、特に想わされることは、このイエス御自身が、神の御心に忠実に従いつつ、うそや偽善に満ちた律法学者たちの支配する闇の中に、本当の平和を作り出す知恵の実を蒔き続けた、ということです。しかし、そのイエス御自身もその実の豊かな成果を見ることなく、十字架につけられて死んでいかれたわけです。そして、今は上から聖霊を私たち一人一人に送り続け、御自身の知恵を分かち与え続けておられる、そして、私たち一人一人にその平和の知恵の実を蒔き続けるように、と促しておられるのです。ただ、単に、イースターの日程を知っている、ということなのではなく、今年のイースターが、この自分にとって、具体的に何を教え、どのような新しい歩みを促そうとしているのか、そのことを悟る、ということが、御子の復活の時を知る、その時の意味をも含めて正確に知る、ということであるのです。日程的なその時を知らされていたにも関わらず、その時の自分にとっての本当の意味を「知らなかった」ということがないように、日常のことに忙殺されながらも、今から目を覚まして、イースターに向けて心備えをなしていく一人一人でありたいと思います。

←一覧へ戻る