2006年3月5日 「勇気を出しなさい」

エレミヤ書31:27〜34/ヨハネ福音書16:25〜33

←一覧へ戻る

『しかし、わたしはひとりではない。父が共にいてくださるからだ』 (ヨハネ16:32)

<アガペーの愛>

 このヨハネ福音書の箇所においてイエスは、すでに弟子達が裏切っていくことを知っておられるようであります。33節の言葉、「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」というこの言葉はよく知られていて様々に引用されたりもしますが、この言葉の背景に目をこらすならば、この言葉は実に、自分をこれから裏切り見捨てていく人達のために語られたものであった…、ということがわかります。弟子達と一緒にいながらその弟子達の無理解に取り囲まれてイエスは本当に孤独だったのです。しかしイエスはこの時、自分のことを脇において全くの孤独の中でアガペーの愛を貫徹されたのでありました。

<声をかけ続けてくださる主>

 32節の後半において主イエスは、「しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と言い切っておられます。自分のことをこれから裏切っていく弟子達に取り囲まれて、「しかし、私はひとりではない」とイエスは語られ、さらに、「これから起こる十字架と復活の出来事を見て、勇気を出して、あなたたちもまた、この世の悪しき慣習や、悪しき力関係から解き放たれて自由になっていきなさい…、」と言われたのです。師である自分を裏切り、一人きりにしようとする弟子達のために、主イエスは誠心誠意、そう語られたのでありました。そしてこの聖書の箇所を通して、今、主イエスは、ここにいる私達にも同じように語っておられるのではないでしょうか。私達もまたこの弟子達のように、主の言葉を正しく理解することができず、また知らず知らずのうちに、主の想いや期待を裏切ってしまうことがあると思います。しかし、主は、ご自身の想いを正しく受けとめ、理解することのできない私達一人一人に対しても、大きなさみしさを感じながらしかし、見捨てることなく、「勇気を出しなさい」と声をかけ続けてくださっているのではないでしょうか。「信仰していてもどうせ大したことは起こりっこない…」。心の一番深いところで自分でも気づかぬうちにすっかり冷めてしまい、信仰における絶望・静かなる絶望に安住してしまいそうになる私達の心に、「わたしは既に世に勝っている」と声をかけ続けてくださっているのではないでしょうか。

<主と共に苦難に満ちた現実を歩む>

 今朝の聖書の箇所は、そのような私達一人一人に、どんなことがあっても絶望しきってしまってはいけないと呼びかけているのです。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。これらの呼びかけの言葉が、自分のことを理解せず、裏切っていこうとしていた人達に対してかけられた愛に満ちた言葉であったことを思い起こす時、私達は再び、この方の、この時おかれていた孤独な環境と、にも関わらず、無償の愛で愛し抜かれた態度を思い起こし、心揺さぶられるのではないでしょうか。そして、もう一度この方と一緒に、苦難に満ちた現実を一歩一歩踏みしめて歩いていこうという勇気が、少しずつわいてくるのではないでしょうか。孤独なさみしい気持ちでいっぱいになりながら、しかし、そのようなご自身の想いを全てわきに寄せて、「勇気を出しなさい」と励ましの言葉を弟子達にかけられた主イエスの愛が、受難節のこの朝、ここに集められた私達一人一人にも向けられていることを、しみじみと受け止めたいと思います。

←一覧へ戻る