2006年2月26日 「苦難の中に示された栄光」

ヨナ書2:1〜11/ヨハネ福音書12:20〜29

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『父よ、御名の栄光を現してください』 (ヨハネ12:28)

<苦難の中の栄光>

 今朝のヨハネ福音書の箇所において主イエスは、十字架への道行きを前に、ご自身の苦しみが頂点に達していくなかで、不安と恐怖に心ふるわせておられます。そして「私は心が騒ぐ」とつぶやきながら、動揺した心のままに神に祈られています。そのようなイエスの祈りに対して神は「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」とお答えになった、と28節に記されています。ここで神は、「栄光は苦難の後にではなく、すでに苦難の中に与えられている」と言われています。ここで言われていることの中心は、苦難を乗り越えた後に初めて栄光が与えられるのではなく、苦難のただ中に…、苦しみがますます深まっていくその中に、すでに栄光が表されている、ということです。苦難のただ中に、すでにあらわされはじめている栄光‥、その栄光とはいったい何を指しているのでしょうか。それは一言で言うならば、神の国の香りである、と言えるのでしょう。神の栄光があらわされているというのは、神の国の香りがただよっている、ということなのです。イエスが宣教された神の国、とは、言うまでもなく、いと小さき者が大事にされる時間と場所のことであり、いと小さき者が大事にされることを通して全ての者が公平に愛されるようになる時間と場所のことです。そこに神の栄光が充ち満ちているのです。

<御足のあとを歩む時>

 私達一人一人にもそれぞれ、様々な課題や苦しみがあります。しかし、主イエスキリストの十字架に向けての苦難と死、そして復活の出来事を思い起こしながら、その御足のあとを歩むように進んでいくなら、私達それぞれの苦難の中にも、神の国の喜ばしい香り・神の栄光は、あらわされてくるのです、そして、そのような歩みの中で、私達それぞれが個人的に抱えていた悩み苦しみの問題が、解決されていくのです。神の国の光に照らし出されて、抱えていた悩み苦しみの実体が明らかにされ、主イエスと共に歩む導きの中で、解決されていくのです。かつてイエスは、マタイによる福音書6章33節において「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」と言われました。この主の言葉にゆだねて、天になるごとく地にも神の国がなっていくよう仕えていくことが、私達自身の悩みや課題の解決につながっていくのです。

<心騒がせつつも‥>

 私達の人生にはなお多くの悩みや課題が与えられており、深い不安にとらわれたり、激しい動揺におそわれたりすることも、しばしばあるのかもしれません。しかし、そのような時こそ、イエスもまた、十字架の道行きを前に、激しく心騒がせられたことを思い起こしたいと想います。しかし、イエスは、その道から逃げることなく、その道にとどまり、一歩一歩進んでいかれました。その結果、やがて、復活という豊かな実りにあずかることができたのです。私達もまた、深い不安にとらわれながらも…、心騒がせつつも、御国を仰ぎ見て歩んでいくならば、今歩いている道の先に示されている光が徐々にはっきりと見えてくるのではないでしょうか。そして歩んでいく道筋が次第に明るく輝いて見えてくるのです。私達もまた、イエスがそうされたように、神の国が天になるごとく地にもなるように仕えていきたいと思います。そのように歩んでいくところに、私達一人一人の悩みや課題が解決されていく道が備えられていることを信じて、その私達一人一人の救いが成就していく道に照らし出される光を見つめながら、前進していきたいと思います。

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