2006年2月19日 「心の戸をひらく」

列王記下4:25〜37/ヨハネの黙示録3:14〜22

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『あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。』(ヨハネ黙示録3:15)

<熱くも冷たくもなく>

 ヨハネの黙示録の著者は、これから非常に厳しい迫害にあうだろう信徒たちに向けて、黙示的な表現を用いて励ましを与えようとしました。キリストの教会に対してじわじわと迫害の波が迫ってきているのを感じていた当時の信徒達でありましたが「まもなくキリストが再び来てくださるに違いない…、」その想いに支えられて日々を過ごしていたのでありましょう。しかし、今朝のこの聖書の箇所に記されている言葉は、厳しい戒めの言葉です。「じわじわと迫害の波が押し寄せてくるのを感じているにしては緊張感が足りなすぎる」と叱責しているかのようです。15節、16節に続いて、17節にはこう記されています。「あなたは、『わたしは金持ちだ。満ち足りている。何一つ必要な物はない』と言っているが、自分が惨めな者、哀れな者、貧しい者、目の見えない者、裸の者であることが分かっていない」。つまり、当時の信徒たちは確かに、じわじわと迫ってくる迫害の波を感じていたのでしょうし、そのような中で、「まもなくキリストが再び来てくださる、」という待望に支えられて日々を過ごしていた…、しかしその一方で彼らは、自分たちを迫害しようとしている者達とも何とかうまくやろうとし始めていたのではないでしょうか。いわゆるこの世の多数派と妥協してうまくやろうと努め始め、そのうちに自分たちが守り抜かねばならなかった信仰の事柄も徐々にないがしろにするようになっていったのではないでしょうか。

<熱くなくてもいい‥>

 私達はこの言葉を、現代の私達に対しても語られている言葉として捉えてみる必要があると思います。もし私達もまた、知らず知らずのうちに熱くも冷たくもなく、なまぬるい状態に陥ってしまっているのであるならば、私達は急いで、主イエスと再び、新たに出会う努力を始めなければなりません。そのためにはいったいどうすればよいのでしょうか。まずその一つは、主イエスと最初に出会った時のことをもう一度想い起こしてみる、ということでありましょう。誰にでも、かつて自分が悩み苦しんだ時に、慰めを与え、力を与えてくれた御言葉があったと思うのですが、あらためてその御言葉を読み返しその頃のことを思い返すことは、現在の自分の信仰生活を見つめ直すよい機会になることと思います。そしてそこで、「あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい」と言われた主の言葉を思い起こしてみると、ある一つのことに気づかされるのだと思います。それは、熱くなくてもいい…、ということです。冷たくてもいい、つまり、たとえかつて、自分を慰め、支えてくれた聖書の言葉に対して、今は冷たく、批判的であろうともかまわない、ということです。むしろ、「疑問を感じることがあるのなら、この私に激しく迫ってくればいい…、ぶつかってくればいい…、」と主イエスは言われているのではないでしょうか。聖書の言葉を通して語られるイエスに対して、私達がありのままの想いを素直にぶつけていくことを主は喜んでくださいます。

<心の戸をあけて>

 私達の主イエスは、無理矢理、私達の心の戸を開けることはしません。待っておられます。私達の主体性にゆだねて戸をたたきつつ、待っておられるのです。冷たくもなく熱くもなくなまぬるい生き方に慣れ、時に、流されがちな私達であるかもしれませんが、今朝のこの御言葉によって再び、主に対して心の戸を開いて生きる一人一人になっていきたいと心から願うのです。

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