2006年2月12日 「命の言にとどまる」

蔵言2:1〜9/ヨハネによる福音書6:60〜71

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『わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である』(ヨハネ福音書6:63)

<裏切っていく弟子達>

 このヨハネ福音書の52節以降においてイエスは「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物である」と象徴的に語られました。また、「わたしは天から降って来たパンである」とも言われました。しかし60節以降を見ると、弟子達はこのように象徴的に語られた言葉の意味を正しく受け取ることができず、多くの者が「実にひどい話だ」とつぶやきながら、イエスのもとから去っていった、と記されています。それに対して68節以下のところでシモン・ペトロは次のようなことを言っています。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」これは非常に正しい、また優等生的な答えです。しかし、心底ペトロがそのように感じていたのかどうか、これもまた、はなはだ疑問です。71節には裏切り者のユダのことが記されていますが、ペトロにしてもやがてイエスを裏切っていくということについては同じです。ユダの方が先にイエスを裏切ったという、ただそれだけの違いだったのかもしれません。

<ユダ>

 当時ユダは弟子達の中で会計をあずかる立場にあった、と言われています。聖書の中には、ユダの発言はあまり記されておらず、どちらかと言えば寡黙な人だったのかもしれませんが、多少うわついたところのあるペトロなどとは違って、相当厚い信頼を皆から受けていたのではないでしょうか。イエスを深く信じて黙ってつき従い続けてきたユダの信仰的ふるまいが、皆のそのような信頼を集めていた、ということだったのかもしれません。ユダは黙ってイエスを信じ、従い続けてきた、熱心に信仰生活を送ってきた、多くの期待と希望をイエスに対して抱いてそのようにしてきたのでありましょう。それだけに、自分がイエスに対して抱いてきた期待と希望がくずれていった時その絶望もまた、とほうもなく深いものだったのかもしれません。そしてユダは、張りつめていた糸がぷつんと切れたようになり、イエスを売り渡すという自分でも予測のつかない行動に突っ走っていくのです。そして、そのいまわしい行動の後でユダははっと我にかえり、今度はそのような事をしてしまった自分自身に深く絶望して、自ら死を選んでしまうのです。

<鈍い私達のために>

 私達もまた、まじめに、真剣に信じ、求め、様々な期待や希望をイエスと共に歩む人生に抱けば抱くほど、その期待や希望が破れてしまった時の失望感・絶望感は深くなるのでありましょう。そして信仰生活そのものを捨て去ってしまいたいと感じることもあるかもしれないのです。思えば私達の信仰生活は、大きな不信仰という闇の中で、時々きらめく信仰の光を見出し一歩、また、一歩と手探りで歩んでいくようなものなのかもしれません。特に人生における様々な困難の中で私達はしばしば闇に迷い込むのかもしれません。期待していたような救いがなかなか実現しない、というあせりの故に不信仰という闇に迷い込んでしまうのです。しかし私たちは今朝、そのような鈍い私達のために、十字架にかかってくださったイエスを再び見つめたいと思います。確かに主の言葉は時に謎でありますが、しかし私たちはその言葉をいつも心に覚え、待ち続けたいと思います。そしてその言葉が生き生きと力を発揮しはじめるその時こそ心から主イエスに対して、「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と告白したいと思うのです。

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