2006年2月5日 「邪悪なこの時代のなかで」

サムエル記下12:5〜13a/使徒言行録2:36〜42

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『彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。』 (使徒言行録2:42)

<ペトロの説教>

 今朝の使徒言行録のこの箇所は、ペトロの説教の最後の部分です。その内容は「イエスの言葉と業は、お互いの愛を生み出し、争いのあるところに和解を生み出し、平和を作り出し、また、わかちあいを大切にするものであった。そのような言葉と業に仕える歩みは、まっすぐな時代を形成することにつながっていくはずであるが、この世は、それを拒否する」というものでした。「この世はあくまでも、自分の利益を追求し、わかちあうことを拒否する、また、自らを省みて謙遜に他と和解し、平和を作り出そうとしない、そのような時代の空気が充ち満ちている、」と。「だからそのような邪悪な時代から救われるために、あなたたちは悔い改めてバプテスマを受けなさい」とペトロは説教し勧めたのです。このようなペトロの勧めの言葉を受け入れた者達が、三千人ほどあった、と聖書は41節において記しています。ここから推測されることは、この時代もまた、私達が生かされている現代と同じ、あるいはそれ以上にすさんだ時代であった、ということです。このペトロの勧めの言葉を受け入れた人達は当時の時代の空気の中で、窒息するような苦しい想いをしていた人たちであり、それゆえに新しい生き方を探し求めていた人たちであったのではないでしょうか。

<霊を見分ける>

 そして、その人たちは、「使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった」と42節に記されてあります。使徒達の教えを守ること、信徒の交わりをなすこと、共にパンを裂くこと、また、祈りをあわせること、これらのことは全て、教会の業でありますから、つまりこの人達は、そのような教会の業に日々連なることによって力を与えられ、この邪悪な時代から救われようとしていたということなのでしょう。そしてそれは、その時代を支配していたこの世の様々な霊と、自分たちが従おうとしている聖霊・イエスキリストの霊との違いをきちんと見分けるということを必然的に伴う営みであったと言えるのでしょう。聖書においてはいかなる場合でも、人間が神格化されることは決してなく、神のみを神とする、イエスのみをキリストとする、そして一人一人の人間を欠点も多いそのままでキリストの救いの御業のために豊かに用いる、それが私達の信じる聖霊の導きだったのですから‥。

<御言葉の導きによって>

 私達が生かされている現代社会もまた、様々な霊に満ちている社会です。またいとも簡単に人間が神格化されていく社会です。そしてそのような諸霊にキリストの教会もまた、常にさらされていることを想わざるをえません。しかし私たちは、主日ごとに語られる聖書の御言葉に心から聴き、イエスキリストの言葉と業を想い起こしつつ、どこまでも、主の導きを祈り求めていきたいと思います。確かにこの「邪悪な時代のなかで」私達もまた、この世の様々な霊の影響をいやおうなく受けるでしょう。しかし、そのただなかでなお、主にのみ目を向け、助けを求めるならば必ず主の霊はおしみなく私たちに授けられると信じぬいていきましょう。私たちの教会はその創立のはじめから、この主の霊によってのみ、立てられ、導かれてきました。ですからどんなに様々な霊が満ちあふれる時代になろうとも、どんなに様々な力が魅力を放つ時代になろうとも、そのようなもろもろの霊、また、力に惑わされることなく、私たちは、天から注がれるイエスキリストの霊をしっかりと受け止め、その霊によって常に新しく生きていくのです。

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