2006年1月29日 「深まる闇の中で」

歴代誌上29:1〜5/ヨハネによる福音書12:1〜8

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『そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。』 (ヨハネ12:3)

<マリアとユダ>

 今朝の、このヨハネ福音書において記されているマリアの行為はイエスを慕うせいいっぱいの行為でありました。一見、無意味、無駄に見えても、そうではありませんでした。主は、このマリアのせいいっぱいの行いを用いられる、それがこの箇所に描かれているテーマです。しかし、ユダは、そのようなマリアの行為を激しく批判しました。「なぜ、この香油を売って貧しい人々に施さなかったのか」「何という無駄なことをしたのか」と。確かにユダは非常にまじめな、まっすぐな人であったのだろうと思います。しかし非常に功利的な人であったのです。自分の目標や理想に照らして功利的にイエスを信じていたのです。

<功利的な信仰>

 このような、功利的に人を見るという見方は、役に立たなくなればその人を切る、という行動を必然的に生み出していきます。しかし神の眼差しは、決してそのような功利的なものではなく、全ての人に、また、つくられた全てのものにそれぞれ価値がある、というものでありました。しかしユダは、そのことに気づくことができなかったのです。まっすぐな人であっただけに、イエスに失望していった時、自分の理想にとって役にたたなくなったイエスを切り捨てていくという闇に向かって一直線に進んでしまったのでありました。そのようにユダは深まる闇の中にとらえられていったのです。

<主の御業はまわり道を必要とし無駄と思えるような行為を抱え込む>

 しかし本当は、そのような自分の想いや、期待・希望が見事に裏切られた時に、新しい信仰の局面があらわれ始めるということを私達はぜひ、覚えておかなければなりません。自分の願い、期待、希望が裏切られた時、それはつまり、自分自身の信仰的な思いこみにつまずいた時であります。しかしやがてそこから新しい信仰の局面があらわれてくるのです。だからそれは、私達の信仰が成長するチャンスの時でもあるのです。その時私達は、「せっかくそのようなチャンスが与えられたのに、失望してあなたは、主イエスから離れるのか、主を裏切る行いをなしていくのか…、それとも、主イエスにとどまり続けるのか」と問われることになるのでしょう。しかし、つまづきながら限りなく続く神との対話の中で、私達は成長し、成熟していく自分自身を発見するのです。ユダのように自分の想いが破れてしまったそのところでこそ、私達は主のまことの想いに出会うのです。そこで、たとえ無駄なように見えることでも…、回り道に見えることであっても…、常に主と共に歩み始める、という方を選ぶならば、それは遠回りのようであっても、信仰のあらたな局面を拓き、主の御業に参与することになっていくのです。大事なことはそのようにして、私達の信仰的な思いこみの破綻を越えて、主の御業に仕え続ける、ということです。しばしば主の御業は、まわり道を必要とし、私達にとって無駄と思えるような行為を抱え込んでいくのです。今朝の聖書の箇所において記されているマリアの行為はイエスを慕うせいいっぱいの行為でした。一見、無意味、無駄に見えてもそうではありませんでした。そのように主は、一見まわり道に見えるプロセスにおいて、様々な人を様々な形で用いられるのです。この、功利的な人の想いをはるかに超えていく主の導きに、とどまり続けよ、ゆだね続けよと、今日、私たちは語りかけられているのではないでしょうか。

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