2006年1月22日 「苦しみぬかれた方の言葉」

申命記30:11〜15/ヘブライ人への手紙4:12〜16

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『神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。』(ヘブライ4:13)

<主イエスの試練>

 ヘブライ書の15節の後半を見ると「大祭司である主イエスは、すべてのことについて私達と同じように試練に会われた」と記されています。私達の主イエスは人々に誤解され、様々な痛み、傷を負わされ、苦しみぬかれました。主イエスは、実に不条理な、いわれのない苦しみをあえて背負いながら、十字架への道行きを一歩、また一歩と、進んでいかれました。一歩、また一歩と進んでいくごとに御自身の心と体にひとつずつ傷をつけられ、痛み・苦しみをじわじわと深くさせられながら、主イエスはゴルゴタの丘へとのぼっていかれたのです。それは確かに私たちには想像を絶する試練でありますが、それでもあえてその光景を想像する時、私達はまず、今までに私達が受けた傷や苦しみを、思い起こすのではないでしょうか。そして、こう想うのではないでしょうか。「イエスが負われたあの傷、あの苦しみは、私が受けた傷、苦しみだ」と。「私が受けた深い傷と苦しみを主イエスはすでに、あそこで負ってくださり、そしてそのように私の痛み苦しみをご自身の身をもって理解してくださった方が、今も、そばにいて、この私を支えてくださっているのだ…、」とそのように想うのでありましょう。

<主イエスの傷の全てを確認する>

 そしてそれは確かに、主イエスが負われた傷、苦しみの半分を正しく認識している、と言うことができるのでしょう。しかし大事なことは、もしそこにとどまるなら、私達は主イエスが負われた傷、苦しみの半分しか、まだ理解していない、ということなのではないでしょうか。残りの半分は、私達自身が主イエスの貴いお体につけてしまった傷であり、そして今もなお、つけ続けてしまっている傷であります。私達の罪、この私の罪のために今も、主イエスは傷をまた一つ、一つ、とご自身の身に、つけられ続けておられるのではないでしょうか。

<自分がつけてしまった傷にふれて、自らの弱さを告白する>

 主イエスが苦しみぬかれたあの苦しみの一つ一つ、主イエスが受けられたあの傷の一つ一つは、確かに、私が今まで負ってきた、負わされてきた苦しみ、傷の一つ一つでありました。しかしそれは主イエスの傷の半分でしかなく、残りの半分は私達自身が、知らず知らずのうちに主イエスのお体につけてしまった傷なのです。しかし、自分が主イエスのお体につけてしまった傷を発見し、その傷にふれて、自分自身の弱さを告白する時、主はその弱さを共に担い、あがなってくださり、私達を新しく生きる者としてくださるのです。決して誰にも告白することができない私達一人一人の心の奥深くに潜むそのような弱さを、主の御前にだけは告白することが許されており、その告白を主は待っておられるのです。その弱さを共に担い、あがなうために、その告白を主は待っておられるのです。ここに悔い改めは、喜びの福音でもあるという根拠があるのです。「主イエスのお体にあるこの傷は私がつけたものです」という告白を具体的に御前になす時、初めて私達は、この私の罪のために苦しみぬかれた方の許しのことばを聴くことができるのです。そのために、主イエスのお体の中に自分がつけてしまった傷を、探し出し、ふれて、見つめる、それは恵みの体験なのだということを深く心に覚えておきたいと思います。そして主の御前にそれぞれに悔い改め、私達が具体的に告白した弱さを共に担い、あがなってくださる主と共に、新しく生かされたいと心から願うのです。

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