2006年1月15日 「律法と福音」

エレミヤ書1:4〜10/ヨハネによる福音書5:1〜18

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『イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。』 (ヨハネ福音書5:6)

<「福音」>

 今日のヨハネ福音書の箇所には、三十八年も病気で苦しんでいた人をイエスが癒した物語が記されています。6節には、イエスが病気に苦しみ続けていた人に「良くなりたいか」と声をかけられたとありますが、これは病気に苦しむその人にとってまさに「福音」であったと思われます。「福音」とは、そもそも、よき知らせ、という意味ですが、イエスに託された神からの「よき知らせ」とは、不条理と不平等に満ちたこの世界に、公平・正義が確立される…、という知らせであり、いと小さき者が大事にされる神の国が近づいている…、という知らせでありました。イエスは、この知らせの実現に仕えるという使命に生きていたのです。

<「律法」>

 だからイエスは、ここでは安息日の律法を無視せざるをえませんでした。安息日には「床を担ぐ」ことは律法で禁じられていたにもかかわらず、福音は律法を越えるという判断をし、いやしの業を行いました。そして「床を担いで歩け」と、三十八年病に苦しむその人に言ったのです。しかし、当時の律法に忠実に生きていたユダヤ人たちにとっては、律法を守ることこそが死守すべきことだったのです。なぜなら、それが自分たちの正しさを証明し、自らの社会的立場を堅持する唯一の手段だったからです。その秩序が崩されることは彼らには耐えられないことだったのです。それで彼らは、イエスをますます憎み、殺そうと計るようになっていきました、18節に記されてある通りです。このように、このユダヤ人たちにとって律法は、最も大切なものでした。この律法、また律法を中心とする社会の秩序を乱したり、無視したりしようとする者は排除されるべきだ…、場合によっては命を奪うことになってもかまわない、という考えだったのです。場合によっては人の命よりも律法の方が大切だ、と‥、そこまで彼らは考えていたのです。

<現代における「律法」を超えて「福音」に生きる>

 ひるがえって私たちの毎日の日常において、私達を不必要に縛っているもの…、本当は誰もが不自由だと感じているのに誰も言い出すことができずにいる慣習・規律たとえばそのようなものを現代における律法だと、言う事ができるのではないでしょうか。また、弱い立場におかれている人達が、ますます疎外され、生きにくい状況がつくられていくのだとしたら、それを私たちは律法的な状況であると…、反福音的な状況であると言わなければならないのでありましょう。そして、そのような規律・慣習、状況を、今イエスがここにおられたらどうされるだろうか…、という視点で見つめ、福音的な時間と場が生み出されていくために仕えることが、現代の弟子である私たちのつとめなのだと思います。確かに私たち一人一人には小さな事しかできないかもしれません。また実際には行動を起こすことがなかなか困難な状況が常に私たちを取り巻いているのかもしれません。しかし、すぐには何もできなくても、まず祈るところから…、イエスが今、この状況の中で私たちに先立ってどのように振舞おうとしておられるのかを聖書を読みつつ黙想し、祈るところから始めていくことが求められているのではないでしょうか。そのような本当に小さな一歩をも主イエスは、かけがえのない一歩として喜んでくださる‥、その事を信じて祈り始め、そこからどんな小さな行動であっても福音に具体的に仕える行動を見出していきたいと思います。

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