2006年1月8日 「神の神殿」

出エジプト記14:15〜22/コリントの信徒への手紙二6:14〜7:1

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『わたしたちは生ける神の神殿なのです』 (コリント二6:16)

<神の神殿とされている自分を認める>

 今朝の聖書の箇所において使徒パウロは、イエスキリストの神を信じて生きる私たち一人一人のことを「神の神殿である」と言っています。「私達は生ける神の神殿である」と…、16節のところです。そしてそれは、かつて主イエスも言われたことでありました。かつて主イエスは、祈りの家と呼ばれるべき神の宮・神殿が、商売の場所になり堕落してしまったのを見て激しく怒られました。神殿の庭で売り買いをしていた人達をみな追い出し、両替人の台や、はとを売る者の腰掛けをくつがえされました。そしてその時、「私は神殿を打ちこわし三日の後に建てることができる」と言われた、と聖書には記されています。この主イエスの言動こそ、クリスチャンにとって一番大切なものは、目に見える立派な会堂・礼拝堂なのではなく、そこに集められる一人一人が神の神殿として、イエスキリストの霊が宿る場として…、またイエスの言葉・御言葉が宿る場として整えられていくことなのだということを指し示していたと言えましょう。コリントの教会に限らず、いつの時代も教会は正しく教会であり続けることの困難さを経験してきたと言わざるをえないのでしょうが、そこに集められる一人一人が神の神殿とされている自分を認識し整えていくならば、その教会は立派に正しい教会として存続し続けるであろうということが、すでにここで言われていたのです。

<神殿である「わたし」の内側にイエスの言葉が響き渡る>

 かつて主イエスが言われたように、教会は祈りの家であり、そこに集められる私達一人一人は「神の神殿」であります。私達が礼拝を献げるためにこの会堂に集められる時、祈りをもって備え、礼拝で語られる言葉から主イエスの御声をきちんと聞き取るなら、私達一人一人の内側にイエスの言葉が響き渡り、私達一人一人が神殿として整えられていくのです。実に私達は今、この礼拝堂に集められ、御言葉をいただき、再び神の神殿にされようとしているのです。神の神殿とされる自覚を持ち、自らの内に与えられる御言葉に注意深く目を向ける時、御言葉と共にイエスキリストの霊が生き生きと躍動し始めるのです。そしてやがて、御言葉御自身が神の神殿としての私達一人一人の中で働き始め、私達を突き動かし私達を行動へと導き始めるのです。その働きに身をゆだねていくことが私達のなすべきことであり、それが即、主イエスの御業に仕えることになっていくのです。

<神殿である「わたし」の内に御言葉が宿り、この「わたし」を守ってくださる>

 そして私達が忘れてしまっている時でさえ、御言葉は私達一人一人の心の中にあり、神殿としての私達を見守っているのです。そのような限りない平安・何物にも代え難い平安に包まれて生きていく道が私達には備えられているのです。今朝のこの礼拝において私達一人一人、御言葉の宿る神の神殿として再び整えられることに感謝しつつ、喜びをもってそれぞれの遣わされる場におもむきたいと思います。そして様々な事情で、今日、ここには来ることができない方々もまた、それぞれの場において主から神の神殿としてこよなく愛されていることに想いを馳せ、それぞれの場に立てられている神殿としてのお一人お一人の内に、キリストイエスの愛と力がみつるように祈り合いたいと思うのです。

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