2006年1月1日 「光と共に歩み出す」

イザヤ書49:7〜13/ローマの信徒への手紙16:25〜27

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『この福音は世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです』 (ローマ一6:25)

<よろしく>

 このローマの信徒への手紙の箇所は、ローマ書の一番最後の部分です。たいへんていねいなパウロのあいさつが記されているところです。パウロは手紙を書き終えるにあたり16章の始めから、教会のいろいろな人達に「よろしく…、よろしく…、」とあいさつを書き送っているのですが、最後の25節、26節においては「わたしの福音すなわちイエス・キリストについての宣教によって、」という言葉を用いつつ今後ますます福音が広くのべ伝えられ、神の栄光が輝きわたりますように…とあいさつをしめくくっています。ここでの一番のの特徴は、特に3節以降から、パウロが「よろしく、」という言葉を非常に多く用いているということです。以前ある牧師が、この「よろしく」という言葉について次のように言われていました。「この言葉は、あいさつの単なる決まり文句として使われているのではない…、この、よろしく、という言葉には抱きしめる…、とか、包みこむ…、という深い意味がある、だからパウロは、この、よろしく、という言葉を通して、それぞれがお互いを包みこみあうような、抱きしめあうような交わりをつくっていくように…、と促しているのだ、」と。私も原典にあたって、この「よろしく」と日本語に訳されているもともとの言葉を調べてみましたが、確かに「包みこむ」とか「抱きしめる」という意味が、この言葉にはありました。

<互いに包みこみあい抱きしめあいながら光をともす>

 すなわちパウロは、特に16章の3節以降において、この「よろしく」という言葉を多用しつつ、パウロと関わりを持ち、共に宣教に携わった人達が互いに包みこみあい抱きしめあいながら、確かに闇がますます深まっているこの世界に光をともし続けていくように…、と促していたのです。そのパウロは一五章の三十節においては、自分のために祈ってほしい…、お祈りをしてほしい、と願い出てもいます。つまりパウロは、自分もまた決して強い人間ではないということを熟知しており、宣教の同労者たちの、互いに包みあい抱きしめあう交わりのなかにこの自分も入らせてほしい、と願い出ているのです。そのように、この自分も含めて全ての者が主御自身の宣教の業の中に導き入れられる時、一人一人の力はどんなに小さく弱くとも、闇の世を照らす光とされて輝き始める、とパウロは信じていたのではないでしょうか。そしてこの暗闇の世に、たとえどんなに小さく弱くとも光をともしていくために、何をせよ、と神様は私たちに言われるのでしょうか。その御声に耳を傾けるのが、まさに2006年の第一日目に私達がなすべき第一の奉仕なのでありましょう。

<新しい希望を抱いて>

 クリスマスから新年を迎えるこの時期は、キリスト者である私達が一番光を強く感じる季節だと言えるのではないでしょうか。それは、弱まっていた信仰も再び強められる季節であり、そのような中で新しい望みが与えられる季節です。クリスマスから新年を迎えるこの時期は、私達にとって、まさに、新しい希望が与えられることを待つ季節なのです。そして、全ての被造物を造られた神が与えてくださる新しい希望に導かれていくならば、こわされていた他者との関係もまた再建されていくのではないでしょうか。そして、そのような過程をへて神の栄光が取り戻されていくのです。互いに包みあい、抱きしめあうことを忘れてしまった人々の姿に顔をくもらせておられた神に、再び輝きが取り戻されていくのです。そのような輝く神の笑顔こそ、神の栄光なのだと言えるのではないでしょうか。

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