2005年12月25日 「神われらと共にいます」

イザヤ書52:7〜10/マタイによる福音書1:18〜25

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『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』 (マタイ1:23)

<インマヌエルなるイエス>

 このクリスマスの朝に与えられた御言葉の中で今日は特にマタイによる福音書1章の23節を中心に神の御心をご一緒に尋ね求めたいと思います。このインマヌエルなるイエス、とは、神とはこういう方だということを、その生涯を通して、周りの人達にさし示し続けた人であった、ということができるでしょう。まさにイエスのこの世での御生涯は、出会った全ての人達をいろいろな形で愛された、愛しつくした生涯でありました。しかし、同時にそれは愛したその人達からたくさんの誤解を受けた、そして、傷つけられ続けた生涯であった、とも言えるでしょう。その最後は、あの十字架上で、まさに傷だらけにされる、というものでありました。ですから、イエスの、あの十字架上における傷は、まさに、人々のかたくなな心によって誤解され続けたことによってつけられた深い傷だったのだと思います。

<傷だらけの神>

 しかし、私達が待ち望んでいた神、イエスキリストは、まさにそういう傷だらけの神だからこそ、そこに救いというものがあるのではないでしょうか。私たち人間が経験するどんなひどい痛み、苦しみをも、すでに経験されつくした傷だらけの神だからこそ、私たちのどんな苦しみもよくわかってくださり、助けてくださることができるのではないでしょうか。「傷ついた人は、かつて傷ついたことのある人によっていやされていく」というある神学者の言葉を想い起こします。

<私たちがうけた傷は、いつかきっと他の誰かをいやす賜となる>

 教会は、クリスマスから新しい1年の歩みが始まります。過ぎ去ったこの1年も、私達一人一人、いろいろなことがあったことと思います。楽しかったこと、うれしかったことと同時に、苦しかったこと、また、いろんな人との関係において傷ついたことも多くあったのではないか、と想います。けれどももし、たくさん傷ついたことがあったとしても、きっとまた、その傷から新しい他者と出会う道が開かれていくことを私達は信じたいと思います。それは、自分と同じように傷を負った他者であり、心の傷の物語を聞いてほしいと願っている友人です。そしてそのような他者との出会いは、自分もまた弱い傷つきやすい人間なのだということをあらためて知るきっかけにもなり、自分自身とも新しく出会うことになっていきます。私達誰もが、長く生きれば生きるほどいくつもの傷を負っていきます。それはおそらく、さけることのできないものなのでありましょう。しかし、その傷は、きっと他の誰かの傷をいやす道具となっていく、そのような恵みのたまものとなっていく…。クリスマスは、主イエスと共に、そのことをあらためて確認しつつ、新しい1年の歩みを踏み出す時として、私達に与えられているのではないでしょうか。私たち一人一人の、この一年の歩みは、決して手放しで喜べるような、平坦なものではなかったかもしれません。私達一人一人、この一年の様々な歩みにおいて、傷を負い、苦しんだことがたくさんあったのではないでしょうか。しかし、であるからこそ、私たちの、この共同体の中に、その交わりの中に、永遠のインマヌエルなるイエス・キリストがしっかりと共にいて下さる。そして新たな導きを与えてくださる…、私たちは、このクリスマスに、再びこのことをしっかりと確認して「新しい出発」をしたいと思うのです。

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