2005年12月18日 「主の輝き」

サムエル記上2:1〜8/フィリピの信徒への手紙4:4〜9

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『主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。』(フィリピ4:4)

<私たちのしあわせとは‥>

 今朝のフィリピの信徒への手紙の箇所においてパウロはまず、「主において常に喜びなさい」と語りかけています。おそらくこの「主において常に喜びなさい」ということが、この手紙の中でパウロが最も伝えたかったことだったのだろうと思います。しかしこの「喜ぶ」という言葉には、いつもにこにこ笑顔で明るくしている、というイメージがあります。果たしてパウロは、そのようなことをフィリピの人達に求めていたのでしょうか。いつも、どんな時も、にこにこ笑顔で明るく過ごすことがクリスチャンの幸せにとって不可欠なことと考えていたのでしょうか。

<常に喜ぶ?>

 この「主において常に喜びなさい」という言葉について、私達はもう少し厳密にその意味を探っていかなければならないようであります。まず、「主において」という言葉ですが、これは、原典を直訳するならば「主の中で」ということです。また、「常に喜びなさい」とあるこの「常に」という言葉ですが、この言葉には、「今まで以上に」「これまで以上に」という意味もあります。また、「永遠に」「永久に」という意味もあります。そして、この最後の「喜びなさい」という言葉なのですが、この言葉には「晴れやかでいる」、また「輝いている」という意味があります。また「祝う」という意味もあるのです。ここで祝う、とは、祝祭をする、ということ、祭りを執り行う、ということ、つまり、礼拝をする、ということです。だとすればここは、最終的には次のようにも訳せるのではないでしょうか。「あなたたちは主の守りの中で、あるいは、主の導きの中で、今まで以上に…、これまで以上に…、熱心に礼拝し、輝いていなさい、そして、晴れやかでいなさい」と。
「そのようにして、うれしい時、楽しい時だけではなく、悲しい時、苦しい時にも、主イエスからの光をいただいて輝いていなさい…、主イエスからの光を輝かせていなさい…」とパウロは言おうとしていたのです。「いつも、にこにこと明るく笑顔を浮かべていなさい」、ということを言おうとしていたわけではなかったのです。「どんなに悲痛な想いに打ちのめされている時にも、苦しくて、涙がとまらないような時にも、主の守りと主の導きの中にとどまり、主イエスからの光をいただいて輝きなさい」と繰り返しパウロは勧めていたのです。事実、このような勧めの言葉を記しているパウロ自身が、この時、獄中にありました。時には、正直、心細い想いになったり、苦しくて涙がとまらないような状態になったりもしたのだろうと思うのです。しかしパウロは、そんな時にも自分が、主の守りと主の導きの中にある…、ということを忘れることはなかった…、そして、獄中において、今まで以上に心をこめて主を礼拝し、主イエスからの光を仰ぎ見、いただいていたのです。

<主は近い>

 来週、私達はいよいよクリスマス礼拝を迎えようとしています。私たちは今朝、再び、キリスト者としての今までの歩みを思い返し、思い起こしつつ、今までもそうであったように、きっと主の備えがもうすぐそこに与えられようとしていることに希望を見たいと思います。そして私達の思い煩いの一切をイエスキリストの神にゆだねたいと思います。主がどんな新しい導きを備えてくださっているのか待ち望みつつ、静かな心でクリスマスを迎え、心の内にイエスをお迎えしたいと思います。そして新しい主の導きの中で、今まで以上に…、これまで以上に…、熱心に礼拝し、輝いていきたいと心から願うのです。

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