2005年12月11日 「キリストの霊が宿る時」

イザヤ書40:1〜11/ローマの信徒への手紙8:1〜11

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『キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。』 (ローマ8:10)

<いのちの霊をお迎えする>

 今朝、私たちに与えられましたローマの信徒への手紙の8章1節からには次のように記されています。「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。」この、私たちを罪と死との法則から解放してくれるキリストイエスにあるいのちの霊‥、この、いのちの霊を新たにお迎えする、ということが新たにキリストをお迎えする、ということです。

<キリストの霊が宿る時>

 かつて私達の神はイエス・キリストとなって、馬小屋というこの世の最も低き場に下ってきてくださいました。そして今年もまたこのようにアドベントを迎え、私達一人一人の中にイエス御自身の霊を宿らせることを通してかつての御業を再び起こそうとされるのです。それは、否応なく低い立場に置かれている人達の視点、そしてそのような人達と共にあったイエスキリストの視点から、自分の身のまわりと自分自身とを見つめ直させるという働きです。その時初めて、神の国が見えてくる、そして、本当の自分の姿、まわりの人達の姿が見えてくる、と聖書は語っています。このような見つめ直しの作業は全ての人が、最も低き場所に立ちたもうたイエスキリストの視点にあずかるという恵みの体験であり、そこにおいて人は、自分自身の本当の姿を再発見するのです。このようにアドベントのこの時私達は、自らの心の内に、聖霊・イエスの霊と自分の霊とが出会い、対話し、響き合うのを経験していくのです。そこで起こることは、自分の霊がイエスの霊を取り込んでいくことなのではなく、イエスの霊が、この自分の全てを取り込み包んでくださる、ということです。そしてそのようにイエスの霊の中に取り込まれて、その中で生きていく時、私達は変えられていきます。自分の内に宿りたもう聖霊に、動かされていくからです。このようにイエスキリストの霊が自分の中に宿らないならば、たとえクリスマスが来ても、自分の中で何も新しい事は起こらないのです。

<新しい何かが始まる>

 パウロは今朝の聖書の箇所の10節以降において、こう言います。「キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、"霊"は義によって命となっています。もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」。キリストが宿られて初めて、私たち一人一人それぞれの「私自身」というものが変えられていきます。私の中に新しいことが始まるのです。新しい命に生き始めるのです。キリストの霊が私たち一人ひとりの中に、本当に宿ろうとしておられる…、それを待ち望むのがアドベントなのです。この私の中にキリストの霊が宿るのならば、きっとこの私にも新しい何事かが始まっていくのです。イエスは、この私の中で何事かをお始めになるのです。まずこの自分自身が変えられていき、主イエスと共に歩むさらに新しい人生が開けていくのです。今日は私たちがそのような、キリストの霊との出会いを経験するようなクリスマスを迎えられますように祈りをあわせたいと思います。自らの心の内に、自分の霊とキリストの霊とが出会い、響きあうようなクリスマスを御一緒に迎えたいと切に願うのです。

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