2005年12月4日 「主の愛につつまれて」

エレミヤ書36:1〜10/マタイによる福音書14:22〜33

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『イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。』 (マタイ14:31)

<疑うペトロ>

 今朝のマタイ福音書には、湖の水の上を歩いてこられるイエスの方に向かって、自分も水の上を歩いていこうとしたところ、たちまちおぽれかけ、イエスに向かって、「主よ、助けて下さい」と叫んだペトロ(三〇節)のことが、記されています。そしてイエスは手をのばしてペトロをつかまえて言われました。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」(31節)。ペトロは信仰の英雄などではなく、しばしば疑いと、不安と恐れの中にありました。しかしそれはまたこの世に生きる私たち自身の姿でもあるのではないでしょうか。そしてアドベントは、このように来たりたもう主を待ち望み、この主にひたすら集中して目を注ぎ、希望をもって「主よ、お助け下さい」と呼び求める時なのではないでしょうか。

<深い闇に灯される小さな光>

 しかし聖書には、クリスマスの喜びの訪れを伝える記事にまじって、そのような私達の希望をうち砕くような出来事も記されています。同じマタイ福音書の2章の16節?18節を見ると、ベツレヘムとその周辺の地方にいた二歳以下の男の子がことごとくヘロデ王の手によって殺されたという出来事が記されています。人々を世の罪から救うイエスがお生まれになったにもかかわらず、いやその事をきっかけにこんなに悲惨な出来事が新たに起こってしまったのです。そのことによって私達は、人々が御子の降誕によって大きな希望を抱きつつも、その希望がすぐに成就することなどありえなかった…、と知らされるのです。私たちはまことの光であるキリストの到来によって、逆に真にこの世の闇が深いことを知るのです。そう、私達が生かされている世は、まさに、闇の世なのです。今年もアドベントを迎え、救い主イエスの御降誕を静かに喜びをもって待ち望みつつも、私達は日々報道される出来事に、この世の闇の深さを痛切に知らされるのではないでしょうか。私達は今年もその深い深い闇の中にクリスマスを迎え、イエスの到来を告げる光と出会おうとしているのです。

<闇から光へ>

 この深い闇に与えられる光はまだ小さく弱く、一時的にはもっともっと闇が深く見えてくることもあるのでしょう。しかしそれでもなお、闇から光へと目を転じてその光を見つめ続け、その光に従っていくことができるのかどうか…、そのことが問われているように思います。このクリスマスに、今年も新たに光をいただく私達は、その光と共になお苦しみつつも、暗く深い闇の中を歩いていくよう促されるのかもしれません。クリスマスがやってきた…それでめでたしめでたしなのではなくて、そこからイエスと共になお忍耐づよく歩み続けていく応答が求められるのかもしれないと思うのです。しかしたとえ何度ころんでも、何度おぼれても、主は、その都度、御手をさしのべ私達をすくい上げ、導いてくださいます。そのような主がきてくださる…、そのような主の愛に包まれて歩いていくことができる…、それが、私達みなに等しく備えられているクリスマスの恵みなのではないでしょうか。闇はいまだに深く、私達それぞれに与えられる希望も、そう簡単には成就しないのかもしれません。しかし、時には葛藤し疑いつつも、その都度主イエスのみを見つめるところへと回心したいと思います。深い闇を突き破って、ますます主イエスの光が強く私達一人一人を照らしてくださることを切に祈りながら、主の御降誕の日を待ち望みつつ歩んでまいりたいと思います。

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