2005年11月27日 「希望の源である神」

イザヤ書51:4〜8/ローマの信徒への手紙15:4〜13

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『だから、神の栄光のためにキリストがあなたがたを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに相手を受け入れなさい。』 (ローマ15:7)

<「ユダヤ人」と「異邦人」の対立>

 このローマの信徒への手紙の9節から12節までには、「異邦人」という言葉がたくさん出てきますが、この「異邦人」とは、いったいどのような人達のことを言っているのでしょうか。一言で言うならば、これは、ユダヤ人以外の人達、ということになります。当時、ローマの教会においては、ユダヤ人キリスト教徒と異邦人キリスト教徒との間に、対立があった、と言われていますから、この13節までのところにおいては、ユダヤ人キリスト教徒だけにではなく、異邦人キリスト教徒に対しても、同じ神の同じ憐れみが注がれている、ということをパウロは強調して宣べ伝えようとしたのでしょう。また、当時の教会内において、ユダヤ人キリスト教徒が異邦人キリスト教徒を見下すような態度をとる、ということもあるいはあったのかもしれません。そして教会内においてさえそうであったのであれば、教会の外においてはなおさらのこと、異邦人は見下されたり、仲間はずれにされたりすることがしばしばあったのでありましょう。

<差別の根源にあるもの>

 しかし、そもそもそのようなことは、このローマの信徒への手紙が書かれた時代に始まったことなのではなく、イエスの時代からあったことなのでしょう。全ての人が神から等しく愛されている、ということを知らされてはいても、たえず隣人と自分とを見比べて、自分の位置を確かめていないと安心できない、という人間の「さが」はいつの時代にもあったのです。そして、その人間の「さが」が異邦人を低く見、教会の中においてさえ見下す、という事態を生み出すことになっていったわけです。だから8節に記されてありますように確かに、キリストイエスは、まず、割礼のある者の僕となられたわけですけれどもその後、人が人を区別し、差別し始める、という悲しむべき状況に着目されて、そのような事態をなくすために、一番、見下されている人、一番つらい立場に置かれている人の救いから、全ての人の救いの業を始められたのです。だからこそ、異邦人は、11節にあるように主をほめまつり、ほめたたえることができたのであり、また、12節にあるように、その主に望みをおくことができたのです。そのような「よそ者」と呼ばれて、見下され、差別された人たちの神、救い主、それが私たちの信じるイエスキリストなのです。このように私たちの主は、まず、割礼ある者に遣わされた方でありながら、その後、対等に互いを尊重し受け入れあうことができない人間の状況の中で、最も弱い立場に置かれている人々のところに降りていき、そこからもう一度、全ての人の救いの業を始めていこうとされたのです。

<救い主誕生の秘義>

 そのように私たちの神・イエスは上から人々を見下ろし「強くなってここまでのぼってこい」と怒鳴りつけるような方なのではなく、下から、しかも一番苦しい想いをさせられている人達のさらに下から、全ての人を支え、仕えようとしてくださるお方なのです。だから、全ての人の救い主なのです。異邦人にとっても、ユダヤ人にとっても…、すなわち全ての人の救い主なのです。だから主は、神と全く等しい方でありながら、あえて、馬小屋、という最も低く、最も汚く、最も暗い場所を選んで、一人の人としてこの世に降ってきてくださったのです。それが全ての人の救い主イエス誕生の秘義なのです。

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