2005年11月20日 「主の交わりに生きる」

サムエル記上16:5b〜13/コリントの信徒への手紙T1:1〜9

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『この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです』 (コリントT1:9)

<主の交わり>

 今朝の説教の題は「主の交わりに生きる」となっていますが、この「主の交わり」、とは、言うまでもなくイエスキリストが私達の中心にいてくださる交わりのことであります。声の大きい人や、力の強い人、財力のある人や、社会的に重んじられている人が中心にいてみんなの注目を集めている、という交わりなのではなく、あくまでもイエスキリストが中心にいて、誰もが謙遜な想いをもってこの方を見つめている、という交わりのことであります。そのような交わりを「主の交わり」、と言うのです。

<コリント教会の交わり>

  パウロが語りかけているこのコリントの教会の交わり‥、7節を見ると「あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」とあり、一見何の問題もなく満たされた交わりを持っていたのか…、とも思えるのですが、しかし、10節以降を見ると「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」とあり、実は決して平和な…、一致した…、豊かな交わりが持てていたのではない、ということがわかります。それぞれにつまずきを覚えることが多くある中で、たえず、教会は、ばらばらになる危険を抱えていた、ということなのでありましょう。
だからパウロは、この手紙の冒頭から「私も、あなたたちも、召されている」ということを強調し、共に神の憐れみによって召されて集い、交わりをもっている民なのだ、という自覚を再びしっかり持つように促そうとしています。自分も、この人もあの人も、「召されて」この教会に集ってきているのだ、という自覚を取り戻すことができたなら、そこから、互いに召された者として尊重しあう、という姿勢が生み出されてくることを信じて、パウロは「私も、あなたたちも、召されている」ということを強調したのでありましょう。

<主の交わりに生きる>

 そして、現代の教会に生きる私達もまた、誰もが弱く、常に正しいわけでもなく多くの悩みや苦しみを抱えている者達であります。そしてこの世は、そのような弱さを拒否することもあるのかもしれませんが、教会では、決してそのようなことがあってはならないのです。教会は常に、声の大きい人や、力の強い人、財力のある人や、社会的に重んじられている人が中心にいてみんなの注目を集めている、という交わりではなく、あくまでもイエスキリストが中心にいて、誰もが謙遜な想いをもってこの方を見つめている、という交わりを持ち続けなければなりません。私達は自分の弱さによりそい、他の人の弱さにもよりそい、そして、教会において祈られる祈りに集中しよりそっていく者達でありたいと思います。そのように弱さをわかちあいつつ、真剣に祈りを一つにする共同体にキリストの現臨が起こることを堅く信じていきたいと思います。かつてのコリントの教会の人達のように、私達も、主キリストが現れてくださることを切に待ち望んでいます。私達の痛み、苦しみ、また課題のただ中に主キリストが現れてくださることを切に待ち望んでいます。溝ノ口教会のこの交わりの中に、主が豊かに現臨してくださり、私達の痛み、苦しみ、また課題を解決へと導いてくださるように…。そして、そのような主の現臨が起こる教会としてさらに整えられていくように、そして私達がより豊かに主の交わりに生きることができるように御一緒につとめていきたいと、アドベントを前に、切に願うのです。

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