2005年11月13日 「祝福と平和」

出エジプト記6:2-13/エフェソの信徒への手紙2:14-22

←一覧へ戻る

『実に、キリストはわたしたちの平和であります』 (エフェソ2:14)

<イエスの霊=隔ての壁を取り壊す霊>

 今日のエフェソの信徒への手紙の15節の後ろの方から見てみると、このように書かれています。「こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。イエス様は、敵と味方となってしまった関係を、仲直りさせて下さる、あの人は自分の敵だという憎しみを十字架によって滅ぼして下さる、というのです。私達はみんな、自分の心の中に人を分け隔てしてしまう、隔ての壁を持っています。でも私達が、イエスという方の霊の力を受ける時、私達の心の中の罪‥、人を憎み隔ての壁をつくってしまう思いが滅ぼされ、明るい勇気が与えられ、みんなが平和に過ごせるように、そのための歩みを少しずつでも進めていく力が与えられていく‥、と聖書には記されています。私達が、心を合わせて祈る時、このイエスという方の霊が私達一人一人の心の底に注がれていく、と聖書は伝えているのです。

<祝福から平和へ>

 今朝はこのあと、幼児祝福が行われます。祝福、とはいったい何でしょうか。それは、神様からいただく幸福のことなのでしょうか。それとも、しあわせになれますように、と祈ることでしょうか。もちろん、そのようなことも含まれるのでしょう。しかし、それは自分一人だけの‥、また、自分の仲間内だけの幸福、しあわせを求めるということではないのは確かです。神様が私たち一人一人に祝福を与えてくださるのは、私たちみんながイエス様の方を向いて、お互いの関係を神様の御心にかなったより平和な関係へと築きなおしていくためなのです。その先に私たちみんなの本当の幸福があるのです。私たちは毎週の礼拝の最後に祝祷を受け、それぞれのところへと派遣されていきます。この祝祷は神様からの祝福であり、それぞれのところへと遣わされて神様から託された使命を果たしていく力となるものです。つまり神様は、神様から託される平和のつとめを、私たち人間がそれぞれの場において果たしていくことができるようにという願いを込めて祝福してくださるのです。祝福という名の力を与えてくださるのです。神様の祝福を受ける時、私たちはイエスキリストの霊の力をいただきます。そして私達の心の中の罪‥、人を憎み、隔ての壁をつくってしまう思いが少しずつではあっても滅ぼされていくのです。明るい勇気が与えられ、みんなが平和に過ごせるように、そのための歩みを少しずつでも進めていく力がわいてくるのです。

<今も十字架につけられたままでおられる主と共に>

 確かに私たちの生きる世界には未だに多くの争い、憎みあいがあります。そしてそれはますます激しくなっていくかのようで、私たちはたくさんの不安と恐れを抱きながら毎日を過ごしています。しかし同時に今朝、私達は、このイエスという方の霊の力を受け、赦されて、自分と周りの人達との間にある隔ての壁を取り壊していくように‥、そのような平和を生み出していく人になるように、と期待されてここに集められているということをも御一緒に、深く覚えたいと思うのです。そしてこの溝ノ口教会につらなる幼い子ども達が神様からいただく祝福に、子どもも大人も‥、全ての者が共にあずかりたいと心から願うのです。どんな時も希望を失わず、この地上に生かされているかぎり、「敵意という隔ての壁を取り壊す」働きを、今も、十字架につけられたままでおられる主イエスと共に、なしていきたいと思います。

←一覧へ戻る