2005年11月6日 「永遠のいのち」

創世記15:1-6/ヨハネによる福音書3:13-21

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『それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである』 (ヨハネによる福音書3:15)

<永遠の命を与えるために>

 今朝与えられたヨハネによる福音書の箇所の13節、ここでイエスは御自身のことを再び明確に語られています。「天から下ってきた者」だとはっきり言われています。そして、いずれまた天にのぼっていく者だ、ということをも明らかにされています。14節の「人の子も上げられねばならない」というこの言葉には、天に上げられる、という意味と同時に十字架の上にあげられる、という意味があります。イエスは十字架に架けられた後、天にのぼられました。なぜ、人の子イエスは十字架の上に上げられなければならなかったのでしょうか。それは、イエスを信じる者が永遠の命を得るためであった、と続く15節に記されています。信じる者達に永遠の命を与えるためにイエスは十字架にかかり、死ななければならなかった、ということです。なぜ、それほどまでの苦しみを負ってまで、イエスは永遠の命を信じる者達に与えようとされたのでしょうか。それは、世を愛しておられたからだ、と16節に記されています。

<主と共に生き続ける命>

  16節には、神がその一人子をお与えになった、と記されてありますが、これは一言で言い切るならば、神が人間になった、ということです。神が人間の姿になられた、あるいは人間の姿をとられた、というよりも、人間そのものになられた、ということです。しかも、最も貧しい人間になられた、そしてこの世に降ってこられた、ということなのです。私達人間は、ついつい傲慢になり、まるで、神にまでなろうとするかのような態度や生き方に走ってしまうことが、しばしばあります。しかし、神は人間になろうとされた、しかも、最も深い痛み・苦しみを感じている人と御自身を全く同一化されるほどに低くなられたのです。神御自身がそのような一人子となってこの世に降ってこられたのです。そして、信じる者達に永遠の命を与えられたのです。だから永遠の命とは、神・イエスの霊そのものです。
そして、言うまでもなく、永遠の命とは、いつまでもこの肉体が生き続けることなのではありません。神から与えられた霊的な生き生きとした命‥、肉体の死をも越えてイエスと共に永遠に生き生きと生き続ける命のことであります。そのような命の躍動のことであります。そして永遠の命は未来の約束なのではなく、信じる者達にはすでに現在の所有として与えられるものなのだと聖書は語っているのです。

<永遠の命を受け継ぐ>

 御子を信じるとは、御子の御生涯に具体的にならう、そのような生き方をしていく、ということです。福音書に記されているイエスの御生涯を繰り返し繰り返し読み、その御足のあとをたどるように生きていく、ということです。そして私達が主の御足のあとをたどっていこうと様々に思いめぐらす時、私達は、私達と同じように様々な葛藤を抱えながらも主の御足のあとをしたい、信仰の生涯を全うされた先輩たちのことを思い起こすのです。そして、その先輩達に与えられていた永遠の命について思いめぐらし祈る時、また、祈りつつ歩み続ける時、私達は先輩達に与えられていた、その永遠の命を受け継ぐことになるのです。私達にもまた、あの信仰の先達に与えられていた永遠の命がすでに注がれています。その命を持ち続け、そこにつながり続けていくならば、私達もまた、様々なこの世の闇をくぐりぬけていくことができるのです。そして、やがて肉体の死を迎えようとする時も、その先にある希望を見上げつつ、進んでいくことができるのです。

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