2005年10月30日 「もう一人ではない」

創世記4:1-10/マタイによる福音書28:16-20

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『イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。』 (マタイによる福音書28・17)

<疑った弟子達>

 マタイ福音書28章16節以下は、十一人の弟子達が復活されたイエスに出会った時の様子を記しています。その時、弟子達は復活されたイエスとの出会いを疑った‥、と17節は報告しています。聖書学者のなかには「この箇所は、むしろ十一人の弟子達全てが疑ったと訳すべきだ」という主張もあるようですが、大なり小なり十一人の弟子達全てが心の中に疑念を抱いていたのであろうと私も考えます。

<私たちもまた疑う>

  でしかし、このような弟子達の姿はまさに、私たちの姿そのものであるのかもしれないと思うのです。信仰というものは‥、その現実の姿というものは、神・イエスを礼拝しつつも疑っている‥、また疑いつつ礼拝している‥というものなのかもしれないと思わされます。常に疑い、迷い、信じ切れない十一人の弟子達、そして、さらに後の時代の弟子達、そして現代の弟子達に対して、だから「世の終わりまで、いつも、共にいるから、大丈夫だ、」という約束の言葉が20節の最後において与えられているのではないでしょうか。。

<求めつつ宣教し、宣教しつつ求める>

 今朝の聖書の箇所に記されている十一人の弟子達はきっと、私たちと同じようにそれぞれに生活の悩みや心や体の痛みに苦しみながら生きていた普通の人々だったのだろうと思いますが、自分の悩みを解決してくださると信じていた主をその途上で失い、復活の出来事を信じ切ることもできずに、疑いながら礼拝していたのです。でもイエスは「それでいい、疑いながらでいい。疑いながらも、なお呼び求め、『すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。』」と十一人の弟子達に言われたのです。ここで重要なことは、疑いながらも宣教していく、ということです。疑いがなくなって完全に信じられるようになったら宣教し始めなさい、というのではないのです。まだ疑いが残っているまますぐに宣教し始めなさいというのです。私達は自分が信じている事柄を宣教しようとする時に初めて、その内容についてきちんと整理し、今自分が何を信じているのか、また何を信じられないでいるのかがわかってくるのではないでしょうか。そしてそのことを自分の中ではっきりと意識し、主を呼び求めつつ宣教することで信仰の深まりが与えられるようにと、そのような願いをこめて主は、相変わらず疑いながら礼拝し続けている十一人の弟子達に、あえて宣教せよとの命令をされたのではないでしょうか。宣教しつつ主を呼び求めていく時、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われた方と真実に出会うことができる、たとえ自分のまわりの状況は変わらないままであっても、ゆっくりと世界に着地するような安心感‥、イエスの腕にしっかりと抱かれている安心感を得ることができる、そのような仕方で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」とイエスは聖書を通して私達に呼びかけておられるのではないでしょうか。だから私達にもまた主に対する疑いがあってもいいのです。しかしそのままで、主に問い続け呼び求めながら隣人に証していく、宣教していくことが求められているのです。そしてそこにこそ真実の証があり宣教があり、そして生きた主との真実の出会いがあり交わりがあるのだ、ということを、今朝の聖書の箇所は私達一人一人に強く呼びかけ、促しているのではないでしょうか。

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