2005年10月23日 「愛の裏側」

創世記2:15〜25/マタイによる福音書18:21〜35

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『イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい」』 (マタイによる福音書18:22)

<「不可解」なイエスの答え>

 マタイによる福音書のこの箇所において、イエスは実に「不可解」なことを言われました。「兄弟が私に対して罪をおかしたら何回赦すべきでしょうか、七回までですか」というペトロの問いに対して、「七の七十倍」と答えたのです。これは「無限に‥」ということなのですが、なぜ、イエスはそのような答えをされたのでしょうか。

<見抜かれたペトロ>

 それは、「七回までですか」と問うたペトロの心の底にある想いを見抜いてのことだったのでしょう。この時ペトロは、自分は完全に被害者である、という立場に立ち、どこまでもはゆるしえない、という現実に立たされていたのです。自分は七回までしか許せない、という現実に立たされていたのです。そして八回同じことをされたら、自分は裁く、という想いの中に立っていたのです。そのような想いの中で‥、八回同じことをされたら自分は裁く、という想いの中で「何回赦すべきでしょうか。七回までですか」と問うたペトロに、主イエスは、23節以降のたとえ話を通して「果たしてあなたは、正しい裁きができる人間なのか。あなたには悪いところはないのか」と迫られたのです。

<裁きあいの世>

 考えてみるならば私達が生かされている世は、まさに裁きあいの世であります。多くの人が、自分は被害者だ、と感じています。心の中で誰かを裁き、自分の加害者性には目を向けることが極めて少ない、そんな世に、私達は生かされているのではないでしょうか。そんな世になってしまった根本には、人々が神を見失い、自らが小さな神のような存在として、善悪の絶対的判断を行い始めたところにあるのかもしれません。

<共に導きを乞い願う>

 兄弟と呼び合うほど親密な関係であった者から裏切られたと訴えたペトロに対して、主イエスは、そのペトロの愛の裏側から彼の本当の姿を暴露されました。「兄弟がわたしに対して罪を犯した」しかし、それはあなたが全くの被害者である、ということなのか…、あなたの愛は裏のない完全なものであったのか、あなたには悪いところはないのか、そもそもあなたは、人を正しく裁いたりゆるしたりすることのできる人間なのか、とイエスは言われるのです。23節以下のたとえ話を通してペトロの本当の姿を暴露されるのです。神様にゆるされている自分の罪が具体的に何なのかわからない、そのような鈍感なペテロの姿を暴露し、新しい在り方をしていくように、と促されるのです。その新しいあり方とは、神様に対して鈍感であるからこそ、一人ではなく二人、三人で共に主の導きを乞い願い始め、そして乞い願い続ける交わりを形成していくことだったのではないでしょうか。互いに傷つくことがあっても、決して自らを絶対者とすることなく、共に主の導きを乞い願い続けていく道を歩いていくことだったのではないでしょうか。
私たちは誰も一人では、正しい裁きも、ゆるしも、なすことができない‥。正しく主の御声を聴くことができない‥。
しかし、だからこそ……、
互いに心を低くして共に集められ、共に聴く教会の交わりが必要なのだということを、今朝の聖書の箇所は私たちに指し示し、促しているのではないでしょうか。

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