2005年10月16日 「イエスの決意」

イザヤ書33:17〜22/ルカによる福音書3:21〜38

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『すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。』 (ルカによる福音書3:22)

<イエスの受洗の意味>

 今朝、私達に与えられたルカによる福音書3・21?38までにおいて私たちに告げられていることは、イエスは全ての人を救うために人となり、そして、人々の神に向かう運動と自分とを一体化するために、あえて、ヨハネのバプテスマを受けた、ということです。そして22節の最後に記されている「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者」という神の声の中に、苦難と十字架を担う御自身の使命を見いだされた‥、そして前方にあの十字架を見つめながら歩み出された、ということです。すなわち私達の主イエスは、罪など何一つなく、悔い改めの洗礼を受ける必要などなかったのに、私達と同じ苦しみを苦しみ、悲しみを悲しむ‥、そのような仕方で私達を愛し、支え続けてくださるというしるしとして、あえて、洗礼を受けられたのです。神の子であるにもかかわらず、神と全く等しい御方であるにもかかわらず、私達人間と全く同じ姿になってくださったのです。

<まことの神のメッセージ>

 私達が生かされているこの時代は、神でないものを神としてあがめ、おがみ、また、自ら神であるかのような振る舞いをする者が増えています。しかしそのような時代に、まことの神が私達と同じ「人」になられた、というメッセージは非常に意外であると同時に、ほっと慰められるものでもあるのではないでしょうか。人を押しのけて神にでもなろうとするような人達がいる一方で、本当の神は、苦しくつらい想いをしている人達、そのような想いを強いられている人達と共にあって、同じ苦しみ、同じ痛みを共有し、担うところから救いの業を始めようとしておられる、と聖書は語るのです。そして、今朝の聖書の箇所によれば、私たちの救い主、イエス・キリストはアダムにまで遡るところの、すべての人に与えられた救い主であるがゆえに、私たちは私たちの出会う隣人とともに、この私たちの前を歩いていてくださるイエスの御姿を見つめるよう促されているのです。神の子であったにもかかわらず、あえて人から洗礼を受けられたイエス。人間のどんなに深い苦しみでさえ、一緒に背負う覚悟をした神の子。このイエスは今朝も、どこまでも一緒に歩いていこうという決意と共に、私達一人一人の傍らにいてくださいます。だから、今、どんなに苦しいことが起こっていても、また、これから起ころうとも、私たちは一人ではないのです。

<交わりの主・イエスキリスト>

 私達の苦しみのどん底に、イエスは両手を広げて立っておられ、そこから希望を抱いて歩いていく新しい道筋を指し示し、どこまでも同伴してくださいます。私たち誰もが、それぞれ十字架を背負って生きていますけれども、その十字架を主が共に背負ってくださるという信頼と実感の中で、私達の苦しみには新しい意味が与えられ、苦しみの中にあっても静かな喜びが生まれるようになってくるのです。そして、互いの背に負っている十字架を見つめ合い、祈りあう場が教会なのであり、その交わりを通して私達は慰められ、励まされ、新たな一週の旅路へと旅だっていくのです。その交わりの主はイエスキリスト。私達一人一人がどんなに苦しもうと‥、たとえば私達の交わりがどんなに痛もうとも、同じ苦しみを苦しみ、同じ痛みを痛み、担い、癒し、導いてくださる御方であります。そのような方として永遠に私達と共にいてくださるしるしとして、イエスはあえて、洗礼を受けられました。私達と同じ姿になってくださいました。そのことを今朝の聖書は、静かに、しかし力強く、私達に報告しているのであります。

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