2005年10月9日 「神様の国」

アモス書9:11〜15/使徒言行録20:32〜38

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『この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。』 (使徒言行録20:32)

■ 子どもたちに ■

 使徒言行録の20章32節には、パウロという人が、教会の人達とお別れする時に語った言葉が記されています。パウロさんは神様の恵みに満ちた言葉を一生懸命語り続けてきました。その言葉はすべて、「神様の国」について‥、それがどういうところであるのか‥、どうすればその国に入れるのか‥、というものでありました。この「神様の国」とは、いったいどういうところなのでしょうか。それは、みんなの中で一番困っている人や弱っている人、苦しんでいる人が、一番大切にされる国のことでした。そんな国いったいどこにあるんだ‥、とみなさんは思うかもしれません。確かに、パウロさんが生きていた時代にも、そんな夢のような国はありませんでした。「でも、困っている人や苦しい想いをしている人に、やさしい言葉をかけてあげたり、ちょっと助けてあげたり、そういう心遣いをお互いにすることでみんなが幸せな気持ちになれるし、その場所が小さな神様の国になっていく」。パウロさんはそう思って、そういう小さな神様の国を自分たちのまわりに、たくさんつくっていきながら、いつか世界中が神様の国になって、神様の望んでおられることが完成するように、と祈り続けていたのです。私たちも聖書を通して伝えられる神様の言葉をききながら、小さな神様の国を自分のまわりにつくっていきたいと思います。その時、イエス様が必ず私たち一人一人のそばにいて助けてくださることを信じて‥、そこに私たちの本当の幸せがあることを信じて‥歩いていきたいと思います。

■ 大人たちに ■

 

パウロがひたすら熱心に取り次いだ神の御言葉とは、すべて、神の国を指し示しそこへと人々を導くためのものでありました。その神の国とは、自分一人の楽園ではなく幸いを分かち合う場であり、最も弱く小さくされた者が、最も大切にされる場でありました。その神の国はすでに近づきつつあり、指し示された御言葉に自らをゆだね御言葉に生きる時、さらに神の国は近づいてくる、というのがイエスの説かれた福音でありました。そのイエスの福音をパウロはありとあらゆる犠牲をはらいつつ、熱心に伝え続けたのでありました。私達もまた、この福音の招きを受けた者たちなのですが、私たちはたえず逆もどりをし、そのためにまた悩みを深くしがちであります。神の国を目指す生き方は、しばしばこの世がすすめる生き方とは対立し、私たちはそのはざまで迷い、時にはこの世的な生き方を選び取る、選び取らざるをえない時もあるからです。しかしそのような時にも、再び真剣に主の教会において働かれる御言葉と出会おうとし、その御言葉に生きなおそうとするならば、私たちは神に買い取られた者としての平安をとりもどしていくことができるのです。私達は今朝、聖書を通して、このパウロが伝えた御言葉にあずかっています。小さな弱い存在にすぎない私達は、たえず様々なことにおびえ、恐れますけれども、神の国とは、そのような小さな弱い私達のために備えられている場所なのだということを覚えつつ、また自分のあり方、生き方を再び変更する心備えをなしつつ、御言葉にあずかり続けていきたいと思います。そして、自分を根底から揺り動かす御言葉と出会い、その御言葉を生き、そのことによって私達もまたパウロのように神の国をつぐ者とされたい、と願うのです。

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