2005年9月25日 「望み見る信仰」

出エジプト記1:15-2:3/ヘブライ人への手紙11:23-28

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信仰によって、モーセは王の怒りを恐れず、エジプトを立ち去りました。目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んでいたからです』 (ヘブライ人への手紙11:27)

<モーセが望み見た「報い」>

 今朝、私たちに与えられたヘブライ人への手紙には、信仰の人モーセの生涯が記されています。今朝のこの箇所の中で私たちは特に24節から26節までに注目したいと思います。そこは親の信仰によって命をつなぎとめられたモーセが、苦しみ葛藤しながらも、今度は自らの信仰的決断によって自分の生き方を選び取っていくという場面です。そして26節の後半を見ると、それはモーセがそのような生き方の「報い」を望み見ていたからこそできた決断だったのだとわかります。では、このモーセが望み見ていた「報い」・「信仰の報い」とはいったい何だったのでしょうか。

<望み見る信仰>

 そもそも、今日の聖書の箇所からさかのぼって、11章の1節、2節を見ると、次のように記されています。「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました。」。私たち信仰者は、目に見えるものを望むのではなく見えないものを待ち望みます。望み見る信仰、それがキリスト教の信仰の特徴です。そして、その望み見る信仰は歴史的な連続性と共同体性の中で育まれ、私たちは大きな神様の夢‥、すなわち神の国の実現、成就のために用いられていくのです。そのための夢が私たち一人一人に分かち与えられてくるのです。私たちは必ずしも自分の望んでいることではなく、神様が望んでいることを望み見るように促され、時にそれは、この世の価値観とは真っ向から対立するものでありながら、次第に神様が望んでおられることを自分も望むことができるようになっていくのです。それは、私たち一人一人の人生において、何ものにも代え難い、静かな大きな力と平安が訪れる時でもあります。

<信仰者の特権>

 私たちもまたモーセのように、生きているうちには、自らの信仰の報いを完全な形で見ることはできないのでありましょう。私たちもまた、後に続く人達に、何かを託しつつ召されていくことになるのでしょう。しかし、「それでいい‥、神様が抱かせてくださる大きな夢の中で、せいいっぱい生きて、仕えたならば、後のことは、また全て神様にゆだねて、後に続く人達を起こしてくださることを信じて去っていけばいい‥、」と聖書は語っているのではないでしょうか。神様が抱かせてくださる大きな夢の中で、せいいっぱい生きて、仕えたその人の人生そのものが、その人にとっての最大の「信仰の報い」である、と聖書は語っているのではないでしょうか。夢を持って生きることが非常に困難なこの時代に、このような、神様が抱かせてくださる大きな夢の中で、せいいっぱい生きる生涯が備えられている、ということ、これは、信仰者だけに与えられている特権なのではないでしょうか。私たちは、私たち一人一人の人生において、また、この教会において、どのような夢を見ていくのでしょうか。どのような夢を見ていけ、と促されているのでしょうか。それはおそらく、この世の価値観とは違う夢であるはずです。弱肉強食の殺伐とした状況の中でただ、ひたすらに勝ちのぼっていく、というような夢ではなく、かつてイエスキリストがこの地上においてなされたその歩みをなぞっていくような形で見る夢‥、そのようなイエスの愛に満ちた夢であるはずです。そのような神様の大きな夢の中でせいいっぱい仕えて生きる生涯へと、ここから踏み出していきたいと思うのです。

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