2005年9月18日 「神に立ちかえる時」

コヘレトの言葉3:1〜13/使徒言行録14:8〜18

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『あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです』 (使徒言行録14:15)

<福音の力>

 ここには、生まれつき足が不自由だった男性とパウロとの出会いが記されています。キリストの力を託されたパウロがこの男性に福音を伝え、立ち上がるように促すと「その人は躍り上がって歩きだした」(10節)とあります。このように福音とは、打ちひしがれている人を立ち上がらせる大きな力でありますが、しかしそれは単なる力ではなく、キリストの力である、ということが忘れられてはならない重要な点なのでしょう。つまりそれを受ける人に、キリストを信じる信仰がなければその力は発揮されることがない、ということです。また、しばしば力は、思い違いや誤解を招きやすいものです。ここでは群衆が、この打ちひしがれている人を立ち上がらせた福音の力を、この世的な偉大な力や魔術と取り違えてしまうのです。そしてパウロ達を「神々」としてあがめようとしたのです。

<自らの弱さの中で強い主を仰ぐ>

  人は誰も、強くはないし、完全でもありません。しかし、神の国を目指すキリスト者の第一の特徴は、強さではなく弱さであります。それは自らの弱さの中で、強い主を仰ぐ、ということなのでありましょう。それが神の国を目指して歩む、ということなのではないでしょうか。だから決してキリスト者はあえて、強い人間になろうとはしないのです。そうではなく、全てをキリストに委ねることによって、自分の弱さを忘れるほど、自分の弱さが気にならないほど、主の強さに圧倒されるようになっていくのです。そのようにわたしたちの弱さの中に、主がおられることの確信が満ちるようになり様々な恐れから解き放たれるようになっていくのです。それがキリスト者の信仰であり、その特徴なのです。

<神に立ちかえり自分に立ちかえる>

 私たちが生かされているこの世には、様々な偶像が満ちています。いろんな人が、まるで神のように自分自身を絶対化し権力を握り、また、その神のごとく振る舞っている人に、こび、へつらい、犠牲を献げている人達がたくさんいます。しかし、そのような状態から離れて、人が神に立ち帰る時、まことに神が神となり、人が人となる、という神と人とのきわめて自然な、正常な関係が取り戻されていくのです。だから、キリスト者である私たちの成長とは、神に近づいていくこと、より神に近い存在になるべく、自分自身を高めていくことではないのです。そうではなくて、神を神とすることによって自らを、本来創られた姿、人間としての自然態に立ち帰らせていくこと、これが信仰者の成長なのです。つまり、本当の意味で、より人間的になっていくということ、それが実は信仰者の成長なのです。自分を超える、という言葉がありますが、キリスト教の信仰とは、自分を超えるのではなく、本来の自分自身に立ち帰ることなのです。神に立ち帰る時、私たちはそのような自分自身に立ち帰ることができるようになります。神に創られた本来の自分自身を取り戻すことができるようになります。もはや誰かと比べることもなく、落ち着いて自分自身を愛し、隣人を愛することができるようになるのです。パウロやバルナバもまた、この恵みを味わい知っていたからこそ、自分たちが祭り上げられるような事に対して、きっぱりと拒否することができたのです。そして、私たちもまた今朝、その同じ恵みを、より深く味わい知るために集められているのです。神を神とし、人を人とする、そのようにして、神に創られた本来の自分自身を、より、取り戻していく道へと招かれているのです。

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