2005年9月11日 「苦しみが輝きだす」

出エジプト記20:1〜17/コリントの信徒への手紙二1:3〜7

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『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。』 (コリントの信徒への手紙二 1:4)

<私達の希望>

 このコリントの信徒への手紙二 1章の3節から7節までの中心点は「私たちは私たち個人の困難や苦難を、礼拝を中心とした主にある教会の交わりによって慰められ、癒されることを求めていくと同時に、この世の様々な苦難の中にある兄弟姉妹を神から頂いた慰めによって慰めることをも求めていくように促されている」ということでありましょう。そのような、私、という個人の苦しみが輝き出すような生き方、私の苦難、という個人的な体験が、主にある教会の交わりによって私たちの苦難、という共同体の体験となるような生き方へと私たちは召し出されているのです。そして一人の苦難が、共同体の交わりによって慰められ、癒されて再び派遣されていく時、そのような喜ばしい事件が起こる時、それは共同体全員の感謝となって、この世に大きな渦を静かに巻きおこしていくのです。それが、復活の主を唯一のよりどころとして生きる私たちの希望なのであり、キリスト者共同体が固く受け継いできた主の恵みの伝統なのです。

<聖霊の交わりにあずかる>

  ではどうずれば、そのようなあり方、生き方ができるようになるのでしょうか。同じコリントの信徒への手紙二の一番最後、13章の13節において、使徒パウロは「主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように」と祝福の言葉を与えています。この言葉は、現代の諸教会においても礼拝の最後の祝祷の言葉として、広く用いられているものですが、特にこの最後の言葉、「聖霊の交わり」ということを深く理解していくことが必要なのではないかと思います。「聖霊において神御自身が人間との交わりの中に来られ、神の『いのち』が分かち与えられ、一人一人があたためられ、互いのいのちのぬくもりと重さに、目覚めさせられる、そのことによって、互いの共通している部分だけでなく、違っている部分についても認めあい、喜ぶことができるようになる」、それが「聖霊の交わり」が私達の間に引き起こす出来事です。そしてとても不可能だ、と思われていたような、人間関係の修復の出来事をも、この聖霊の業は引き起こしてくださるのです。そしてこのことは、まず神ご自身が聖霊を通して一人一人に交わってくださり、ご自身の「いのち」を分かち与えてくださることによって起こされていくのであり、この神の「いのち」にあずかり、そのぬくもりによってあたためられた者は誰でも、互いのいのちのぬくもりと、重さに、目覚めさせられずにはおれないのです。

<そして遣わされる>

 これが、私たちに与えられる共通の霊である聖霊の働きなのです。だから、私たちにとって大切なことは、まず、何よりも神ご自身が聖霊を通して一人一人に交わろうとしてくださっているその交わりに十分にあずかっていく、ということなのでありましょう。神ご自身が聖霊を通して与えようとしておられる、神ご自身の「いのち」のぬくもりに、しっかり、十分にあずかろうと、礼拝に集中していくことなのでありましょう。私たちは皆、一人一人神によって造られた尊い器であり、しかし、皆が同じなのではなく、一人一人かけがえのない違いを与えられています。それは、そのかけがえのない違いを、努力し協力しあいながら、認めあい、学びあい、一つの体、共同体を形成していくためであります。そのことを通して私たちは神の栄光をこの世に表し、証ししていくのです。

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