2005年9月4日 「常識の壁をこえて」

創世記45:1〜15 /ルカによる福音書4:16〜30

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「そこでイエスは『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカによる福音書4:21)

<イエスの説き明かしに人々は感動した>

 この日、イエスは手渡されたイザヤ書の中から、61章の1節2節を選びました。この箇所では預言者イザヤが、差別されている人々、抑圧されている人々が解放される、という喜ばしい福音を語っています。だから、そのような人々の自由が回復されていくということをイエスもおそらく語ったのではないか、と思われます。そしてルカ福音書の22節を見ると、「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた」とありますから、そのイエスの説き明かしの言葉が、そこにいた人々に感動を与えるものであったことは間違いなかったのでありましょう。しかし、そこで、ある人たちが「この人はヨセフの子ではないか」という一言を口にしてしまったところから、にわかに様子が変わってくるのです。

<しかし‥>

 「この人はヨセフの子ではないか」というこの言葉。おそらく、つい口にしてしまった一言。しかし、ついうっかり口にしてしまった一言だけに、本音の言葉でもあったのでしょう。それは、「この人は、あのヨセフの子」、名もなく学もない、あのヨセフの子、あのヨセフの子がこんな見事な説き明かしをするなんて信じられないという驚きの言葉でありました。この言葉は明らかに人を、その家系から判断しようとする言葉です。それは人を、たとえばどの民族、どんな家系か、ということによって尊重したり、差別したりするところへと拡大していきかねない言葉であったのです。だからイエスは人々のこの感嘆の言葉を聞いて、この人たちは説き明かされた言葉を正しく理解していない、と感じられたのではないでしょうか。そして、23節以降、イエスは一転して非常に厳しい言葉を語り始められるのです。なぜイエスは、そのような厳しい言葉を語り始められたのでしょうか。それは、癒しや救いは、ユダヤ人であるとか、異邦人であるとか、あるいはどんな家柄、家系であるのか、などということをいっさい越えて、一番つらく苦しい状況に追い込まれている人からはじめられるべきだ、とイエスが確信しておられたからなのでありましょう。それはまさに神の確信であったのであり、それは18節19節のイザヤ書からの引用においてもはっきりと示されています。イエスの姿勢、生き様は、このように、常に神の御心に従って、まさしく「下の方から聞く姿勢」、最も低くされている人から聞く姿勢であったのです。

<「常識」をこえて>

 ここで私は、東京の山谷で牧会をされた中森幾之進先生が、その経験の中から書かれたエッセイのタイトルである「下にのぼる歌」という表現を思い起こします。「下にのぼる歌」、常識的に考えれば、「下にのぼる」ということなどありえません。「のぼる」というのであれば、当然、「上に」ということになるはずです。しかし、福音書におけるイエスの歩みは、やはり、命をかけて「下にのぼっていく」ものであったとしか、表現することができない‥、そのような常識をこえた表現にならざるをえないのです。私たちが生かされているこの世は、「のぼる」と言えば、すぐさま「上に」という言葉が返ってくるのが常識とされている、いまだ、そのような世界であります。しかしその一方で、上に登りつめていくことこそが正しいという社会の有り様によって必要以上に競争が加速され経済的な豊かさと引き替えにしてしまったものをもう一度、見つめ直そうという新たな時代を迎えようとしていることも確かです。私達もまた、主イエスと共に「下にのぼる歌」を求めて、本当の喜びに満ちた新しい生き方を見出していきたいと思います。

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