2005年8月28日 「み心を地にも」 牧師 飯沢 忠

詩編19:1〜15/マタイ福音書6:9〜10

←一覧へ戻る

『御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも。』(マタイ福音書6:10)

 私たちは「主の祈り」で、「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ」と祈っています。今朝は主の祈りのこの箇所について学びたいと思います。「み心」とは、神がアブラハムに約束された「アブラハムの子孫(すべての者)を祝福する」という神の意思のことであります。神はその目的のために、独り子をこの世に送り、十字架によって私たち人間の罪をすべて赦し救ってくださる『愛』を実現されました。この「天」に備えられたみ心が「地にも」行われるようにと私たちは祈るのであります。
 主イエスは、十字架を前にして「この苦しみの時が自分から過ぎ去るように」「この杯をわたしから取りのけてください」と、苦しみもだえつつも、「しかし、わたしの願いではなく、御心のままに」と神に従順であられました。私たちの祈りは、とかく自己中心的になり勝ちです。宗教改革者ルターは、今日の聖書の解説において「自由意志は自我的なものを求めるものではなく、何ものにもとらわれず、何ものにも執着せず自由であることだ」と述べています。信仰によって自由に生きるとは、自分の思いと神のご意思がたとえ逆であっても、ヨブのように「わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2・10)という信仰を目指して生きることであります。ヤコブの手紙には、「あなたがたは、主の御心であれば、生き永らえて、あのことやこのことをしよう、と言うべきです」(4・15)とあります。
 神のみ心がこの地にも行われるようにとの祈りを祈る時、救われた私たちには、この世に対する責任が与えられることを覚えたいのです。神は私たちを選び、私たちを用いてみ心を実現されます。神のみ心に反する方向にこの世が進む時、私たちは地の塩としての自覚に立ちたいと願います。ティリッヒというドイツの牧師は、第二次世界大戦中、空襲警報で礼拝が中断させられる中で、ヒットラーのもとにあるドイツが新しく生まれ変わり、み心が天になるごとく地にもなさせたまえ、と説教し続けました。その祈りは聞かれドイツは敗れました。日本においても、東大教授の矢内原忠雄先生は、昭和十二年「この国を葬ってください」と祈り、八年後日本は敗れました。敗戦後の日本の復興と繁栄は、世界の国々から奇跡的だと言われました。しかし実態はどうでしょうか。六十年間戦争をしてこなかった平和憲法を変えようとする動きが活発化していることは、ご存知の通りです。
 主イエスは、今日の状況を憂いている私たちに、「恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである」(ルカ12・32口語訳)と仰せになっています。私たちは、それぞれが課題を抱え、自らの弱さを党える者であります。主イエスがヨルダン川で洗礼を受けられた時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」との天の声が聞こえた(マタイ3・17)と記されています。私たち自身がどんなに小さな存在であっても、主イエスの十字架の故にこのままでみ心に適う者とされ、祝福の中に入れられていることをしっかりと覚えたい。具体的にそれぞれに与えられている使命は違います。教会は、神のみ心が地に行われるようにと祈り、その使命に生きる群れであります。

←一覧へ戻る