2005年8月21日 「主の守りのなかで」

列王記上3:4〜15 /マタイによる福音書13:24〜30

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主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。』」(マタイによる福音書13:29〜30)

<誰が見分けるのか>

 今朝、私たちに与えられましたマタイによる福音書の箇所は、「毒麦のたとえ」と呼ばれています。このたとえ話に登場してきた僕たちは、おそらく良い麦と毒麦をわけることはそんなに難しくないと思ったのでありましょう。しかし、ここでの一番の問題は、いったい誰がそれを見分けるのかということです。「これは麦だ、あれは毒麦だ」というように正確に、完全にわけることができるのかということです。そして、今日のこの箇所を何度も繰り返し読むときに、このたとえ話に隠されたイエスの真意は、7章の1節から5節までですでに語られた、山上の説教の中の教訓にあるのではないか、ということが見えてくるのです。

<だから裁くな>

 言うまでもなく、ここは、主イエスが人を裁くことの禁止を宣言されている箇所ですが、この箇所と、今日与えられました13章の24節以下とを重ね合わせて読む時、主イエスは、今日の13章24節以下においても裁くな、ということをお語りになろうとしていたのではないか、と想えます。「良い麦と、毒麦とを、どう見分けるのか。誰が、どんな基準で正確に完全に見分けるのか、人間である限り、誰もそんなことはできないではないか。だから、裁きのことは神にゆだねて、あなた達は決して裁くな」、とお語りになろうとしていたのではないか、と想えるのです。ここでイエスが『裁くな』と語りかけた人達の多くは、当時の社会にあって、裁かれ、罪人だと決めつけられ、決して赦されることなく、収奪され続けていた人達でした。イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた多くの群衆は社会の最下層に呻吟していた人々であり、この人達は社会から遮断されて生きており、しかもこの遮断は宗教的に正当化されていたからです。このような社会の最下層の、裁かれ、罪人だと決めつけられ、決して赦されることなく、収奪され続けていた人達に対してイエスはそれでもなお、あなたたちは「裁くな」と説教されたのです。それは復讐の禁止を意味していただけではなく、神につくられた互いの固有性を尊重しあい、赦しあい、与えあう、という対等な関係性を創造していく道筋を示した言葉であったと言えるでしょう。イエスは、このように語ることによって、いわれのない裁きを受け続けようとも裁き返すことなく、なお神の御前にまず自らを反省しつつ、裁く者、奪う者、と対面し対等な関係性を創造していく可能性を示した、また、いわれのない裁きを受け続けている者たちの間にさえあったであろう裁きあいをも克服していく道筋を示そうとしたと言えるのではないでしょうか。その言葉はすべての人が神に造られた命を、そのままの命として、尊重しあう、という関係性・希望へと向けられていた、ということでしょう。

<主のみまもりの中で>

 イエスはこの7章1節以下において「人を裁くな」との教えと例え話を語られた後、さらに今日の聖書の箇所である13章の24節以下において「毒麦のたとえ話」を語られそしてその後、実際に身をもって、すべての人が神に造られた命をそのままの命として尊重しあうという関係性・希望に向かって歩み続けていかれました。私達の主イエスは今朝の聖書の箇所において、「刈り入れの」時まで待つ、という忍耐の姿勢を示してくださっています。この主の忍耐に感謝しつつ、今一度自らのふるまいと発言を謙虚に反省し、主の平和に仕えていきたいと思います。

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