2005年8月14日 「終わりを知るということ」

ハバクク書3:17-19 /ヨハネの黙示録22:1-5

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天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。(ヨハネの黙示録22・1)

<終わりを知る>

 あのドミティアヌス帝の治世の時代に、黙示録の著者は、これからキリスト者に対するどんなに厳しい迫害や抑圧が起ころうとも、そのような過酷な時の先を見て、希望を抱いて歩いていこう、闘っていこうとしていました。この黙示録の著者がしようとしていたこと、それは、まず、「終わりを知る」ということでした。この世の終わり、終末の時の状況を知る、ということでした。そしてその、この世の終わりの時から逆に、自分の人生の終わりの時を見つめ、そしてさらにこれから起こってくる激しい困難な時代を見つめ、そして現在の自分を見つめる、ということだったのです。それは、そうすることによってだけ、現在の苦しさと、これからもっと過酷になっていくであろう状況を乗り越えていくことができる‥、ということを知っていたからなのでありましょう。

<心の平和?>

 「私達キリスト者が目指すもの、希望すべきものは、心の平和である」、ということを強く主張する人たちがいます。それは確かにそうだ、と私も思います。しかし、その主張が「私達キリスト者が目指すものは心の平和であって、現実的社会的な平和なのではない‥、だから、教会は社会的政治的な事柄には関わらず、心の問題にだけ関わるべきだ」というふうに発展していくならば、それは非常におかしなことだ、と思います。なぜなら、私達は言うまでもなく、この世に肉体を伴って生かされている極めて現実的社会的な存在であるからです。心と肉体を切り離すことはできません。そして自分が置かれている現実的社会的な状況から当然、肉体も心も影響を受けるのです。もし、現実的社会的な状況からいっさい影響を受けない超然とした心があるとしても、それは非常に鈍感な心であると言えるのではないでしょうか。イエスはそのような心の持ち主ではありませんでした。常に現実的社会的な状況を敏感に感じ取り心騒がせ、弱い立場に追いやられている人々の痛みを自分の痛みとして感じ、現実的社会的な状況を具体的に変えていくことを通して弱い立場に追いやられている人々の心に平和をもたらそうとされたのです。それがイエスの宣教でした。この黙示録の著者もまた、迫害がこれからますますひどくなっていくであろう極めて具体的現実的な社会状況の中でこの書を記しました。それは、終わりの時の希望からこの悲惨な現実の社会を見つめ、今、ここから、終わりの時の完全な平和に向かって具体的に一歩ずつでも歩み出していこう、としていたからなのではないでしょうか。

<「希望に満ちた終わり」から呼びかけられている私達>

敗戦60年を迎えて私達の時代は、本当の平和に向かっているのだろうか、という不安にとらわれることもしばしばです。しかし、今日の聖書の箇所を通して、私達もまた、あの「希望に満ちた終わり」をもう一度、深く見つめてみたいと思うのです。そしてこの黙示録の著者のように私達もまた、あの「希望に満ちた終わり」から呼びかけられている‥、ということを感じとりたいと思うのです。「たとえどんなに現在が悲惨なものであろうとも、希望に満ちた『終わり』からこの現在を見つめ直せ‥」、という呼びかけを私達は受けているのではないでしょうか。そしてそうしていく時に、新しい使命と希望が授けられるのではないでしょうか。今日の聖書の箇所に記されている「終わりの時」は、そのような使命と希望を与える源泉として、今日、私達一人一人の心の底に、改めて刻み込まれるのだと思うのです。

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