2005年7月31日 「家族の再生」

エレミヤ書20:7〜13 /マタイ福音書12:46〜50

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だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』 (マタイ福音書12:50)

<神の御心のもとに>

 今日のマタイによる福音書の箇所の48節において。イエスは「わたしの母とは誰のことか」「わたしの兄弟とは誰のことか」と述べておられます。これは、この世の家族というものを、その共同性、絆、というものをある意味、否定するような発言です。そして49節以下を見ると「そして、弟子たちの方を指して言われた。『見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、わたしの兄弟、姉妹、また母である。』」とあります。
一番大切なのは、地縁血縁のもとに一つになっていくことなのではなく、神の御心のもとに再統合されてひとつになっていくことなのだ、とイエスは考えておられたわけです。これは、家族の再生を指し示している言葉です。つまり、イエスの宗教は血はつながっていても、ばらばらになりがちな家族を神の御心、神の愛のもとに再び集め、再生しようとした、ということなのではないでしょうか。

<イエスの宣教>

 そのイエスの宣教活動の特徴は、当時の政治的、また宗教的指導者たちによって「地の民」あるいは「罪人」と規定され、呼ばれていた人たちの中へ積極的に入っていった、ということでした。当時、障碍を負う人たちや病を負う人たちと親密に交わることは法律によって禁じられていました。なぜなら障碍や病は罪の結果である、と考えられていたからです。
しかしイエスは、法を侵してまでも、このような人々と交流をもち、自らがいわば彼らの一人となることによって病気を癒そうとしたのです。
当時、イエスの呼びかけに応えた人々の多くは、家族・郷里・所有を捨てて彼に従いました。そしてこのようにイエスに従っていくことを促したのは、律法によって支えられていたユダヤの家父長制家族社会が、その共同性を喪失しつつあったからでしょう。
つまり、そもそも、もろくはかないこの世の共同性を超えたキリスト教共同体の新しい共同性とは、まず、何よりもそのように不当に苦しめられていた人たちが、生き生きと再生されていくことを目指していた、ということなのです。この世において、生きにくさを感じていたそのような人たちが安らぎを感じ、自分自身を取り戻していけるような場所、それが、そもそもキリスト教共同体が求めていたものだったのです。

<家族の再生>

 ここでイエスが、この世において様々な生きにくさを感じていた人たちが安らぎを感じ、自分自身を取り戻していけるような交わりを目指していた、ということは明らかであります。痛み苦しみを感じているその人自身がまず再生され、次に、そのことを通してその人が属している家族や、この世の様々な共同体が再生されていくことをイエスは目指しておられたのです。
そして今日も、私達は、この痛み苦しみの多い時代の中で、まず、私達自身が再生され、そして、私達の家族、また私達の属するこの世の共同体が再生されていくために、ここに集められているのです。私達はそのためにここに呼ばれ、ここから遣わされようとしている、ということを今朝再び確認しあいたいと思うのです。

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