2005年7月24日 「主の傷口から差す光」

ヨナ書3:1〜5 /マルコ福音書2:13〜17

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医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。』(マルコ福音書2:17)

<自覚的に御言葉を聞く>

 私たちは、この有名なマルコ福音書2章17節のイエスの言葉、今まで何度と無く聞いてきたこの言葉をどのような想いで聞いてきたのでしょうか。たいていの場合、私たちは自らを、ここで言われている「病人」の立場に、また、ここで言われている「罪人」の立場に置いて聞いてきたのではないだろうかと思います。しかしもしかしたら私達は、自分は弱い人間だ‥、また、欠けの多い人間だ‥、と簡単に言いすぎてしまっているのではないか…本当にその言葉を心の底から自覚して口にしているのかどうか‥、自分の欠けや弱さを実はすぐに忘れようとしていることが多いのではないか‥と、心の奥を振り返ってみることが必要なのではないでしょうか。

<苦痛の記憶>

 ところで、私たちの人間的な感情のほとんどは記憶と密接に結びついている‥、と言われます。例えば、後悔は身を切るような記憶であり、罪意識はとがめの記憶であり、感謝の念は喜びに満ちた記憶であり、全てそうした感情は私たちが過去の出来事を、どのように評価し、我が身に刻みつけてきたのか、ということに深く影響されている、というのです。実際私たちはこの世界を私たちの記憶によって理解している、と言っても過言ではないのかもしれない。だから私たちが最もひんぱんに直面する苦痛は、苦痛の記憶であるといっても言いすぎではないのではないでしょうか。苦痛、とは、実は癒しを求めて痛みでうずいている記憶なのだと言えるのではないでしょうか。

<苦痛の記憶が引き上げられ癒される時>

 それではそのような私たちの傷つき痛んでいる記憶はどのようにして癒されるのでしょうか。まず私達は、勇気を出してもう一度、傷つき痛んでいる記憶を忘却の片隅から引き出し、それを手元に置くところから始めなければならないのではないでしょうか。そして、その傷つき痛んだ私達一人一人の物語を神の物語に結びつけていく時、癒しが始まっていくのではないでしょうか。私たちは聖書を通して、語り継ぐべき一つの物語を受け継いでいます。この暗闇の世の歴史に光なる御子イエスが介入してくださったという大いなる物語を受け継いでいます。そして私達は、あのイエスと弟子達との物語が今も、あのイエスと、現代に生きる弟子である私達との物語として、続いていることを知っています。そのことを私達が再び心からの祈りをもって信じ、この現代にまで続いている物語をイエスと共に生きようとし始める時、大きな変化が起こされていくのではないでしょうか。その時、私たちに痛みをもたらす忘却のかなたに追いやられた思い出が、自己中心的な、個人的な領域から引き上げられ、イエス・キリストによって癒されるのではないでしょうか。主の癒しは、自らの傷や罪を忘れ去ろうとすることによってではなく、それらを記憶し、きちんと向き合い、そして、その私たちの苦しみの記憶とイエス・キリストにおける神の苦しみとの結びつきが、祈っていくなかで明らかにされていく時に起こされるのです。この朝、私たちは、あらためてこの主の恵みを深く心にとめておきたいと思います。そして、自らの傷や罪を忘れ去ろうとするよりも、それらを記憶し、きちんと向き合い、あの十字架上の主の傷口から差してくる光に照らされて、主の癒しを受け、新しい歩みを踏み出していく者にされたいと思うのです。

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