2005年7月17日 「十字架の言に賭ける」

レビ記19・9〜18 /マタイによる福音書5・17〜20

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『自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である』 (レビ記19・18)

<律法の根本精神>

 マタイ福音書の5章17節から48節までを見ていきますと、イエスは旧約の具体的な律法にひとつひとつふれながら述べておられるのですが、それはまさに、形骸化してしまっていた律法の解釈を、その根本の精神にまでもう一度たちもどって解釈しなおすという作業であったとわかります。そのことによって旧約の律法を正しく復興させるのがイエスの目的なのでありました。その律法の根本精神とは、言うまでもなく、レビ記の19章18節後半に記されています「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という、このことでありました。当時の律法学者達は、細かい律法の解釈にこだわり、その解釈を絶対化し、また、それを実行できる自分の力を誇り、実行できない立場にある人たちを見下げ、切り捨てることをしてしまったために、本来その律法の根底に定められていた一番大切な精神を見失ってしまっていたのです。そのような状況の中でイエスは「わたしは律法や預言者を廃するためではなく、成就するために来たのだ」と宣言され、レビ記においてすでに示されていた、この全ての律法の根本精神を再び人々に想い起こさせ、復興させようとしたのです。つまりイエスは、昔からの伝統を本当の意味で大切にされる方だった‥、本当の意味で原点に帰ることをたえず、人々に促されていた方だったのだ、ということがわかるのです。

<あの主イエスにならって>

 ですから伝統を大切にし、その伝統の根底にある精神を絶えず想い起こし「今」という時代に新たに生かしていく努力と工夫をすること、これがまさに私達キリストの体なる教会がイエスにならってつとめていくべきことなのだと言えるのではないでしょうか。私達の教会に昔も今も変わることなく求められ続けていることは、言うまでもなく主イエスにしっかりとつながりこの主がなされたことにならっていくということです。それが代々のキリスト教会が死守してきた伝統でありました。そしてその伝統の根本精神は主イエス御自身がそうされたように、互いに「自分自身のように隣人を愛する」というこの一点に賭ける、ということでありました。

<十字架の言に賭ける>

 主イエスが、この一点に賭ける生涯をおくられたのは、まさに唯一なる神がレビ記19章18節において語られた律法を、最も大切な根本的な掟として守り抜こうとされたからです。そのゆえに、主イエスは当時の権力者や律法学者から憎まれ、十字架への道行きを余儀無くされることとなっていったのです。ですから、主イエスにならう、主イエスに従う、ということは、必然的に十字架への道行きを追体験する、ということをも意味しているのです。私達の主イエスは、十字架への苦難から逃れるために、この世と取り引きするようなことはなさいませんでした。この世に妥協することなく、また、この世を裁くこともせず、十字架の死に至るまで、レビ記19章の18節にある「自分自身を愛するように隣人を愛する」というこの根本的な掟を貫かれた方でありました。それゆえにまた、十字架の後の復活、という喜ばしい出来事も起こり得たのではないでしょうか。そのことを想う時、あのイエス・キリストの体なる私達の教会がなすべきこともまた、明らかになってくるはずであります。私達もまた、主の十字架への道行きを追体験するかのような苦しみを味わうことがあるのかもしれませんが、そのような時こそ、十字架の言に賭け続けて、復活への希望を仰ぎ見る者でありたいと思います。

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