2005年7月3日 「主にある交わり」

エレミヤ7:1-7/ コリントの信徒への手紙一 11:23-34

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『だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです』 (コリントの信徒への手紙一 11:28)

<主の晩餐において起こっていた問題>

 当時、主の晩餐は、それぞれが自分の家から食事を持ち寄って、みんながそろったところで始める、という形で行われていました。教会には裕福な人もいれば、貧しい人もいました。裕福な人はたくさんの食事を持ってくることができますが、貧しい人は少ししか持ってくることができません。また持ってくることのできない人もあったかもしれません。また、持ってくる食事の内容も豪華であったり、質素であったりしたわけでしょう。しかし、通常は持ち寄られたそれらの食事をいったん一カ所にまとめて、それから配膳をし直して、出す、というふうにしていたのです。そうすれば、誰が何を持ってきたのか、ということもあからさまにはわからないし、持ってくることができなかった人も、恥ずかしい想いをせずにすんだからです。しかし、教会の交わりに亀裂が生じ、おもに裕福な人たちが傲慢になり、皆がそろうのを待たずに、持ってきた食事を先に食べてしまう、という事態が起こっていました。だから、それは「貧しい人々をはずかしめることになるではないか」とパウロは、ここで怒っているのです。
 パウロは、そのような交わりの問題を解決するために、今日の教会の聖餐の制定語にもなっている23節から26節の言葉を語りました。だから、今日の教会の聖餐において繰り返されるこの制定語は、常に、そのような不和、亀裂、という問題が起こっていることを前提に語られている、ということなのです。そのような問題に満ちた状況の中では皆がもう一度、主イエスと弟子達との食卓の場面を思い起こし、主の十字架の死と復活の意味をかみしめることが必要不可欠であることをこの制定語は指し示しているのです。

<赦され義とされた罪人の交わり>

 ここで言われている罪、とは、一言であらわすならば、「神と人とを愛することにおける自らの至らなさ、」ということでありましょう。私たち教会は、赦され義とされた罪人の交わりです。決して完全に清い、敬虔な者たちの交わりなのではありません。しかし、本当に完全に清められた敬虔な者たちの交わり、というものがもしあるとしても、そのような交わりの中では誰も罪人であることを許されないのではないでしょうか。つまり、そのような交わりにおいては私たちは、自分の罪を、自分自身からまた交わりから隠しておかなければならないことになるのです。

<神の御前にあるがままの自分をさらす>

 でも教会は赦され義とされた罪人の交わりです。だから私たちは清さや敬虔さを装わなくていいのです。安心して自分の罪を、すなわち「神と人とを愛することにおける自らの至らなさ」を認め告白していいのです。そしてそれが主の聖餐を前にしてイエスキリストが望んでおられることなのです。ボンヘッファーという神学者は罪人である私たちについて、次のように語っています。「あなたは、神の前に自分を隠すことはできない。神の前ではあなたが他人の前でかぶっているマスクは役に立たない。神はあるがままのあなたを見ようとされあなたに対して恵み深くあろうとされる。あなたはあたかも罪がないかのように自分自身とあなたの兄弟とをあざむく必要はもはやない。あなたは罪人であることを許される。そのことを神に感謝せよ。なぜなら神は罪人を愛し罪を憎みたもう方であるから」。自らの罪・「神と人とを愛することにおける自らの至らなさ」を具体的にそして安心して見つめ認め素直に主に告白する時を持ちましょう。そこに私たち一人一人が新しい自分に変えられていく道が備えられているのです。

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