2005年6月26日 「見えない明日にむかって」

歴代誌下6:12-21/ ヨハネによる福音書20:24‐31

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『イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」』 (ヨハネによる福音書20:29)

<裏切られたトマス>

トマスは自分なりの信仰でせいいっぱい生前の主イエスに期待し、従っていきたい、と願っていました。しかしイエスの十字架の死によって、その構想はことごとく破れてしまいました。それで「信じた自分がばかだった、裏切られた、」という想いの中で、もう二度と信じない、いや信じることがもしあったとしても、よほどのことがなければ、決して信じない、という固い決意をしようとしていたのです。それが、25節のところで「決して信じない」と断言したトマスの心情だったのだろうと思います。

<トマスの本当の姿を見させるイエス>

 しかし、このような深い絶望と疑いの中にうち沈んでいたトマスに対して、復活のイエスが再び姿を現されます。26節を見ると《八日の後》とあります。25節の最後の「決して信じない」というトマスの言葉のあと、聖書はすぐに、「八日の後」、というふうにたんたんと、その時間の経過を告げており、その間のことは何も記していません。しかし、この何も書かれてはいない八日間、おそらくトマスは「決して信じない」という言葉とは裏腹に、本当に悩み、苦しんだことだろうと思います。「他の弟子達が言っているように、主は本当に復活されたのだろうか。もし、そうだとすれば、なぜ、主は、自分だけには現れてくださらなかったのだろうか」、そのような疑いと悲しみに満ちた想いで、トマスはきっと一日一日、祈り続けたのではないでしょうか。そして、「八日の後」、「イエスの弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。」と26節にあります。ここで大切なことは、復活の主イエスは、トマスをも含めた弟子達の中に立たれて27節に記されてあるようなふるまいをされた、ということです。つまり、弟子ならば皆、いつ、「信じられない」というような状況に陥ってもおかしくないのだけれども、今、ここでは、信じることができないで苦しみ続けているトマスが、その代表として、このイエスのふるまいと言葉にあずかったのです。そしてその時、大きな変化がそこに起こりました。トマスはここで、今まで激しく問いつめていた立場から、今度は問われる立場へと、一瞬にして立場が変わったのです。「この釘のあと、槍のあと、それは誰がつけたのか」と静かに問われる立場へと大きく立場が変わったのです。その時トマスは、自分が実際に手でふれて確認した、この主の体の釘のあと、また槍のあとは、自分がつけたものなのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。確かに自分だけではない、しかし、他の弟子達も含めて自分もまたそこに荷担したのだ、ということをはっきりと理解したのでありましょう。そしてそのような者に、なおあわれみの眼差しをもって接し、受け入れてくださるこの方こそあの主だ、という想いに満たされてトマスは「わたしの主、わたしの神よ」という告白をするのです。28節のところです。そして主は、そのようなトマスに対して最後に、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」と告げられました。

<私たちもまた‥>

 どんなに科学が発達しようと私たちは明日、自分のまわりに何が起こるのかさえ完全に見通すことはできません。その見通しの多くは変更を余儀なくされていきます。見えると言い張っていても実は何も見えていないことの方が多いのではないでしょうか。私達もまた、なんとしても見よう見ようとがんばるのではなく、「見えない主」を素直に心に受け入れ、全てをゆだねて歩んでいけますよう、導きを祈りたいと思います。

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