2005年6月19日 「全ての人を包む希望」

イザヤ書49・14〜21/ コリントの信徒への手紙一13・8〜13

←一覧へ戻る

 『それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。』 (コリントの信徒への手紙一13・13)

<神の愛を得るために祈る>

 今朝、私たちに与えられましたコリント書の箇所の13節において、「いつまでも残るものは、信仰と希望と愛と、この三つである」ということが言われています。この言葉は、本当に多くの人に愛唱聖句として大事にされている言葉でもあり、結婚式などでもよく用いられる箇所であります。この箇所を繰り返し読みますと、「いつまでも残る」と言われている「信仰・希望・愛」、これらは追い求める、という人間の側の努力と、与えてくださる神の側の想いが一致した時に、個々の人間の内側に充満していくものなのだということがわかります。ですから神の側からの働きかけなくして、どんなに努力して頑張ってみても、13章の1節からにあるように、「騒がしいどら、やかましいシンバルと同じ」ということになりかねない、とされているのです。「愛がなければ‥」と記されていますが、この「愛」とは人間の側から湧き出てきた想い・感情、というよりも、神が人間の内側に注ぎ与えてくださった想い・あたたかい促し、と言うことができるでしょう。
この、神からの「愛」、一人一人の人間の内側に神が注ぎ与えてくださる「あたたかい促し」、これを得るために、私たちは、日々祈ります。自分のためだけではなく、隣人のためにも祈ります。

<しかし祈ることに疲れ、静かに絶望する私たち>

 このように祈りは、キリスト者にとって第一に勧められていることなのであり、祈ることによって希望が与えられる、そして神は熱心に祈ることを喜ばれる、と言い伝えられてきています。しかし、混迷する現代社会にあって、私たちは聖書の言葉に従って祈るわけですが、実際には熱心に祈っても聞かれないのではないか…、という実感に襲われることがあるのではないでしょうか。そして祈りが義務になってしまったり、形式的になってしまったり、また祈らなくなってしまったり、ということがあるのではないでしょうか。そのように私たちはいつのまにか静かに絶望しつつ、信仰は信仰、生活は生活、と割り切って生きている自分自身の姿にはっと気づかされる時があるのではないでしょうか。。

<それでもなおイエスによって祈られている>

 しかしもし私たちが、「静かな絶望」のうちに、心から祈ることさえなくなってしまうことがあったとしても、私たちは、自らの祈り以前にいつもイエスによって祈られていた、という現実を再び思い起こしてみることによって、もう一度、立ち上がっていくことが可能です。そして欠けたところの多いままである不完全な者が、完全なる愛の方によって今も祈られ続け、この方の霊におおわれ、守られている、その現実に再び気づく時、その現実を再び感じる時、本当の「信仰・希望・愛」が自らの内側からわきあがってくるのではないでしょうか。私たち一人一人は不完全な者であり、どんな自分の努力をもってしても「信仰・希望・愛」を生み出すことなど、できません。しかし、イエスは完全なる愛の方であり、すべての人のためにすでに取りなし、そしてとりなし続けていてくださるのですから、私たちもまたその取りなしに包まれて守られて、その応答として祈り、仕えていくならば、私たちのなす業そのものはどんなに不完全であったとしても、私たちは、その自らの業を、やがて完成される完全なる方の大きなご計画の一部として見つめることがゆるされるのです。そしてそこにこそ、「静かな絶望」からあがない出されて「信仰・希望・愛」のうちに生き生きと生きる道が備えられているのではないかと思うのです。

←一覧へ戻る