2005年6月12日 「永遠に続くもの」

申命記26・1〜11/ コリントの信徒への手紙二 4・7〜18

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 『ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。』 (コリント二 4・7)

<苦しめられ虐げられたパウロの人生>

 コリントの信徒への手紙二の四章八節以下で、パウロは自分が人生の途上において、四方からいかに艱難を受け、苦しめられ、虐げられ、見捨てられ、打ち倒されていたかを述べています。しかし、そのような悲惨な体験を次々と味わいながらも不思議と、「私は潰されない」と言っています。しかし、よくよく考えてみると、実は、いかにパウロと言えども、四方から苦しめられれば行き詰まり、失望し、見捨てられた、と感じるのではないか、潰れるのではないか、と思うのです。潰れて、枯れた骨のようになってしまうのではないか、と思うのです。パウロはコリントの信徒への手紙二の11章21節では、次のように告白しています。「言うのも恥ずかしいことですが、私たちの態度は弱すぎたのです」。「言うのも恥ずかしい」、それほどに自らの弱さを痛感していた、そして、恥ずかしく情けない想いに打ちひしがれることもしばしばあった、ということなのでしょう。パウロはどうしようもなく弱い、力のない自分というものをまざまざと見せつけられて、穴があったら入りたいような、そのまま消え入りたいような、そんなみじめな想いに満たされることもしばしばあった、ということなのではないでしょうか。

<「土の器」にかくされていた宝)>

 しかしパウロは、そのような自らの「どうしようもなさ」、言うのも恥ずかしいほどの「どうしようもなさ」をいやというほど痛感させられることによって、そのような欠けだらけの自分、どうしようもない「土の器」の中に、あふれんばかりの可能性を秘めた神の恵みの種が、すでに与えられていることを発見したのです。第二コリントの四章7節には、「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。」と記されています。そうです、パウロは、本当に弱い、みじめな自分の内面を徹底的に見つめることによって、その自分の「どうしようもなさ」の奥底に、すでに与えられていた「宝」を再発見したのです。そして、その「宝」を見つめ続けることによって、この「宝」のうちには測り知れない力が潜んでいることを知らされ、そしてそれは、まさに自分の外側から、すなわち神から与えられたものであった、ということに思いを至らせていったのです。

<すでに与えられている「永遠の宝」を見いだす>

 私たちもまた、真剣に誠実に生きようとする時、そうすればそうするほど、弱さや、侮辱や、危機や、迫害や、行き詰まりに直面するのかもしれません。しかし、そのような時こそ、この土の器の内に与えられている「宝」、キリストの霊・キリストの命が力強くよみがえり、古い自分を新しい自分に、またひとつ生まれ変わらせてくださるチャンスの時なのだ、ということを覚えておきたいと思います。だから私たちはもう、自分の様々な弱さ、至らなさ、様々な「どうしようもなさ」に落胆する必要はないのです。もう、自分を責めるのはやめて、ついつい責めてしまうこの自分の一番深いところにすでに与えられている「永遠の宝」・キリストの霊、キリストの命に目をとめて、「我が内にいたもうキリストよ、甦ってください」と祈っていくことが大切なのだと、聖書は伝えているのではないでしょうか。

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