2005年6月5日 「命のパン・イエスキリスト」

イザヤ書60・19〜22/ ヨハネによる福音書6・34〜40

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 わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。(ヨハネによる福音書6・39)

<主のまなざしのもとで歩んでいるつもりが…>

 私たちはみな、「わたしが命のパンである」と言われた主のまなざしのもとで生かされて生きています。しかし、にも関わらず、その主のまなざしのもとで歩んでいるつもりが、いつのまにか、そうでなくなっていた…、ということを私たちは経験します。いつのまにか、主の眼差しを傷つけ、悲しませるような事をしていた…、知らず知らずのうちに、人間的な思いのもとに小さな争いや裁きあいが始まっていた…、ということがあります。そして時として教会においてさえ、そのような事態が起こってしまうのではないでしょうか。

<「欠落態」としての教会>

 神学校時代の私の恩師は、「現実の教会の姿は、常に欠落態である」と言われていました。「わたしのもとに来る人をわたしは決して追い出さない」(37節)とイエスが言われているにも関わらず、私達は現実の教会の交わりの中で、教会から離れていく人を生み出してしまう事が時としてあるのではないか、ということです。だとすればそれは、キリストの体として極めて不完全な、欠け落ちた状態、「欠落態」なのだ、ということです。
そんな時、私達はどうすることもできない自らの限界を感じながら、その欠け落ちていく交わりの中で、たたずみ続けてしまうのかもしれません。どこまでいっても、どんなに努力して頑張っても、私達はそのような事態から完全に逃れることはできないのかもしれません。

<主のあわれみのゆえに「欠落態」として立ち続ける>

 しかし聖書は、イエスに託された神の御心は、イエスに与えられた人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることだ、と言っています。39節以降において主イエス御自身が力強くそう宣言されています。だとすれば、私達がなすべき事は、まず、自らの不信仰と限界を素直に見つめ、告白すること、そして、どこまでいっても、現実の教会は欠落態なのであり教会から離れてしまった最後の一人が帰って来るまで欠けたままであり続けるのだ、という事実を決して忘れない事、そして具体的に悔い改めていくことなのではないでしょうか。私たちはみな、不完全であり、不信仰であるところから免れることはできません、教会もまた欠落態として立ち続けることしかできません、しかし、そのことを深く自覚するところにおいてこそ、主の御業を待ち望む静かな喜びが再びわいてくるのではないでしょうか。
この教会の主・イエスキリストが導こうとされる目的地は、言うまでもなく神の国であります。だから、命のパンであるイエスを信じるということは、何度挫折を経験しようとも、人間の側からも、この神の国を求め続けていくということであり、そして神の国を求める、とは名もない野の草花の一つ一つをも含めて全ての被造物の一つ一つを大事に守り、慈しまれる主の眼差しの下で、この方の眼差しに学んでいく、そして、ならっていく、ということになるのです。確かに私たちはみな、不完全であり、不信仰であるところから免れることはできず、教会もまた欠落態として立ち続けることしかできないのかもしれませんが、しかしそのことを深く自覚しつつ、なお私たちは主の御業を待ち望み、そこから様々な差別との戦いや、社会的実践へと導かれていくのです。

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