2005年5月29日 「聖霊とともに生きる」

エゼキエル 18:25-32/ヨハネによる福音書 14:25-31

←一覧へ戻る

 わたしは、平和をあなた方に残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。(ヨハネによる福音書 14:27)

<主が与える平和」>

 ヨハネ福音書は27節において、主がわたしたちに下さる平和は、世が与えるようなものではない、と語ります。27節後半には「心を騒がせるな。おびえるな」とありますけれども、この主の平和を受けるためには、まさに、場合によっては神へと向かって「世」に反抗する決断、信仰が必要なのだ、ということではないでしょうか。それゆえここに「心を騒がせるな、おびえるな。」という言葉が記されているのではないでしょうか。実際、イエスがこれらのことを語ったとき、それはご自身が「世」から去っていくことを決断されたとき、十字架の死へと向かっていく時と場、その道行きを前にして弟子たちに告別の説教をした場でありました。
 今朝、与えられたテキストはイエスの弟子たちに対する第一の決別説教だったのですが、心を騒がせるな、おびえるな、と弟子たちに伝えながら、それはイエスが自分自身に対して言い聞かせていた言葉だったようにも思えるのです。13章の21節を見ますと「イエスはこう話し終えると心を騒がせ」とあり、イエス御自身が、心騒がせながら、しかし神にすべてを委ねて十字架へと従う決意の中で弟子たちに語り伝えようとした様子がうかがわれるのです。

<主の深いため息>

 そしてこのイエス御自身が心を騒がせながらも、神からの平和をわたしたちに与えるために歩んでいかれた道のりは、世の支配者に捕らえられ、十字架の死へと向かっていく道のり・・・:、御自身が「世」から取り去られていくことを決断された道のりでありました。しかしこの27節の言葉を聴くときに、私は、酢イエス御自身が心を騒がせておられた、ということ・・・、時には十字架への道のりの途上において、人知れず深いため息をつき、うめきながら歩みを進めていかれただろうことに、非常に深い慰めを受けるのです。

<私たちもまた、ため息をつきつつも・・・>

 私たちは、キリストの弟子とされているものたちであっても、疲れを覚えるときもあれば、深く絶望してしまうときもあります。また、様々なことに心を騒がせおびえることもあれば、この「世」にあってキリストの弟子としてのアイデンティティさえ時として奪われそうになることもあるかもしれません。しかし、ここ、わたしたちが集められているこの礼拝堂の真ん中に、今、光なる聖霊が遣わされ、イエスの言葉と業を思い起こさせ、「世」の深い暗闇に向かって再び私たち一人一人を派遣しようとしておられることを想うとき、あのイエス御自身も、時には疲れ絶望し重いため息を吐きながら、しかし最後には勝利し復活されたのだから、私たちもまた、時には疲れ絶望し十字架に向かって重いため息を吐きながらも、かつて主がたどられたその御跡をたどるように歩んでいこう、という気持ちになってくるのではないでしょうか。今、イエスは、かつて弟子たちにお語りになったように、私たちに、聖霊を通して語っておられます。31節「私が父を愛し、父がお命じになったとおりに行っていることを、世は知るべきである。さあ、立て。ここから出かけよう」。
わたしたちが、それぞれの日常の場でついてしまう重いため息の一つ一つさえ、信仰の言葉、祈りの言葉として聞いてくださる方が、この週も共にいてくださるということに励まされつつ、それぞれの場へ出かけていきたいと思います。

←一覧へ戻る