2005年5月22日 「キリストの使者として」

イザヤ書6:1-8/コリント人への手紙U5:16-21

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 だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。(コリントU5:17)

<キリストを「知る」>

 今朝与えられた御言葉からまず気づかされることは、「キリストの御生涯について、また、十字架の死と復活について、どんなに詳しく聖書を読み、また歴史的な知識としてそれらのことを『知っていた』としても、具体的な自らの人生の歩みと何の関係もないような知り方なのであるならば、それは何も『知っている』ことにはならないのだ。」ということです。具体的な自らの人生の歩みにおいて格闘しながら、キリストを求め続けキリストのご生涯を想い、十字架の死と復活について黙想し続けるときにこそ、より深くキリストに出会い、捉えられて、自らの人生においてキリストを「知る」ということが起こってくる、と聖書は言っているのではないでしょうか。それが17節に記されている「キリストと結ばれる」という実在的な態度なのです。そして、この「キリストと結ばれる」という態度は、キリストにならい、キリストに似たものとなっていく、という変化を生み出していくのでしょう。

<そして新しくされる>

 つまり、かつてキリストがなそうとされた御業を思い起こし、そして今、ここでキリストがなそうとされている御業を黙想し、その御業に仕えようとすることによってキリストと一体化されていく道が始められていくのです。その時人は、すでに新しくされているのであり、その新しくされた自らの目で見る世界もまた新しく見えるはずだ、というわけです。たとえ、自らも、そしてこの世界も、いまだ不完全であり様々な問題を抱えているとしても、すべての被造物が完全にあがなわれ新しくされる終末の時は約束されているのであり、信仰によってそこに向かって歩み始めたものはすべて、キリストにあって新しく作られたものだ、というのです。

<「キリストのための私」とされて遣わされる>

 私たちが生かされている世界には、まるで小さな神であるかのように自分自身を絶対化し、発言し、ふるまい、相争うという状況が満ちています。そのような状況の中で、私たち教会がなすべき努めは、まず、そこに集められている私たち一人一人自らが、自らの日常のふるまいを今一度具体的に振り返り、悔い改め、唯一なる神・イエスキリストに再び立ち帰ること、つまり、私たちのためのキリスト、から、キリストのための私、というあり方に立ち帰り、今日の聖書の個所の17節にあるように、「新しく」されていくことなのではないでしょうか。教会が、すなわち私たちキリスト者が発言していくべき内容は、あくまでもこの自らの悔い改めの上に立った宣教の言葉なのであろうと思います。「どんなに、この世が罪にまみれ、絶望に満ち、救いがたい状況であるかのように見えているとしても、主にあって悔い改め、その都度新しくされていく者たちには希望は絶えることはない」という宣教の言葉なのであろうと思います。

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