2005年5月15日 「神様の風が吹いた日」

ヨエル書2:23-3:2/使徒言行録2:1-13

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 すると、一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他の国々の言葉で話し出した。(使徒言行録2:4)

■子どもたちに■

  かつてイエス様は、何の悪いこともしていないのに十字架に付けられてしまったのですが、そこから理由もわからず苦しいことや痛いことを背負わされることを「十字架を背負う」と言うようになりました。そのように考えていくと、私たちにも様々な十字架を背負わされるときがあるのかな……、と思います。けれども、そのような時に心を込めて一生懸命お祈りすると、必ずといっていいほど私の心の中には十字架を背負っているイエス様の、キリストが現れます。そして、その十字架のキリストを見つめていると、自分が今背負っている苦しさと同じものをキリストが背負ってくださるように思えてくるのです。そのとき、私の心には神様からのあたたかい風が吹き込んでいます。そして、かつてイエス様がお弟子さんたちに約束してくださったことは、この私にも約束してくださっていたことなのだ、とわかってきます。私は自分ひとりで苦しい思いをしているのではないのだと思えてきます。イエス様が一緒にこの苦しい思いを背負ってくださっているのだ、という気持ちになってきます。そして、苦しさ、寂しさが少しずつ楽になっているのを感じるのです。今日は、そのような神様からの風が吹いた日、かつて心を合わせて一つになってお祈りしていたお弟子さんたちの心に十字架のイエス様がよみがえり、教会が誕生した日、そしてこのお弟子さんたちのように、私たちも心を合わせて一つになってお祈りして神様からの風をいただく日なのです。

■大人たちに■

 使徒言行録のこの4節以降の記述は、世界のありとあらゆる国を視野に入れたいわゆる世界宣教が、このときからはじめられたということです。様々な国語を持ち様々な地方で暮らしてきた人たち……、つまりいろいろな考え方を持ちいろいろな違った文化を持った人たちが、一つの場所に集められ弟子たちから福音にあずかった……、そしてその福音はひとりひとりの違いを見極めひとりひとりにふさわしい形で伝えられていった、ということです。そして、これらすべての業は聖霊の働きによって起こされた、というのがこの聖書個所の主題です。この霊の助けがあってこそ私たちは今は目に見えない存在であるイエスを実感を持って感じることができるのであり、今もイエスは生きて私たちのそばにいて具体的に導いてくださることを信じることができるのです。聖霊は、この破れに満ちた世界の状況をひとりひとりに直視させます。しかし聖霊を注がれた者がそこに見出すのは絶望ではなく、なおも希望です。なぜなら私たちが信じる聖霊は何よりも十字架の霊であり、十字架の上で神とともに苦しまれたイエスキリストを深く思い起こさせる霊であるからです。私たちが信じる聖霊は貧しい人たちや様々な虐げの中にあって苦しむ人々と共に苦しまれたイエスキリストを深く思い起こさせる霊であり、そして自らもまた、そのように生きようという志をひとりひとりに与え、導く霊なのです。それは使徒言行録の2章の43節以下を見るとわかります。聖霊を注がれた信者たちは、自分たちもまた貧しい人たちや様々な虐げの中にあって苦しむ人々と共に生きようという志を与えられてこのような実践をしたのでしょう。今日はペンテコステ……、心を一つにして弟子たちが祈っていたところに聖霊が下り、教会が生まれ新しい宣教の第一歩が始められたことを思い起こす日また、その同じ聖霊を豊かにいただく日なのです。

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