2005年5月8日 「神の安息にあずかる」

エレミヤ書10:1−10前/ヘブライ人への手紙4:1-11

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 なぜなら、ある個所で七日目のことについて、「神は七日目にすべての業を終えて休まれた」といわれているからです。(ヘブライ人への手紙4:4)

今日はゴールデンウィークの最後の日ですが、休む・安息にあずかる、とはどういうことなのか、ご一緒に考えてみたいと思います。

<創造の七日目・安息の日>

 ヘブライ人への手紙4章の4節で、「ある個所」と言われているのは創世記の2章2節なのですが、そこに目を向けてみると、七日目の神の安息の日、その日はただ神が疲れたから休む、というのではなくて神の創造の業の完成の日でもあった、ということがわかってきます。神の安息の日は、神の創造の業の完成の日として第七日目に置かれているのですが、しかし、聖書においてはこの安息の日から人間の歴史ははじめられています。
 つまり人間は、神の創造の第七日であり人間の歴史にとっては第一日であるその日に、まず神の安息にあずかって休むのです。そして、その次の日から人間は神から委ねられた地上の働きをはじめていくのです。この意味で、人間の歴史のはじめに安息があった、ということがいえるのだろうと思います。

<主の日・祝いの日>

 そのような意味で、週の初めの日が日曜日であることは大変意義深いことなのですが、私たちキリスト教会はこの日をキリストの復活を祝い、記念する日として「主の日」と呼び、礼拝を献げ続けています。キリストの復活は、週の初めの日、すなわち日曜日の曹長の出来事であったと4つの福音書は一致して証言しています。ですからキリスト教の日曜日、主の日は祝いの日でもあるのです。私たちは主日の礼拝にあずかることによって、来るべき神の国における主と共なる祝宴を望み見ているのです。主の日の礼拝は、そのような約束と希望によって支えられているのであり、だからこそ私たちは、この世がどんなに悲惨な状況にあり、その中に巻き込まれて苦しめられていても、希望を抱いて礼拝に参与し、主を賛美することができるのです。働くこと、仕事をすることは、確かに私たちの人生にとって最も大切であり必要なことの一つです。しかし、この悲惨な代の状況の中で、私たちはまず神の安息にあずかることなしに、平安のうちに希望を抱いて働き、仕事し続けることができるのでしょうか。私たちは常に、まず神の安息にあずかり、その事を通して神と神の国を知り、人生の意味を考え祈り求め、新たに神の国に向かって生きようとする・・・・・・、この安息から安息へ、という週ごとの繰り返しの中でこそ、私たちはイエス・キリストの霊に満たされながら、悩みや課題を克服し、乗り越えていくことができるのではないでしょうか。

<御国を望みつつ>

 私たちには様々な悩みがあり、課題があります。しかし現在の悩みや課題が重ければ重いほど、あずかる安息の深さもますます深く、主の愛を心のそこから味わい知ることができるのです。そのようにして私たち神の民は悲しみの涙を流しながらでも顔を天に向けて微笑むことが出来るのです。どんな時もまず神の安息にあずかりそこから、なんらの差別も痛みも苦しみも解消された神の国に向かって、一足一足導かれていきたいと切に願います。

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