2005年5月1日 「イエスの霊によって」

列王記上18:20−39/ルカによる福音書24:13-32

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 二人は『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った。(ルカによる福音書24:32)

<限りなく「不在」であった復活>

 今朝のルカによる福音書は、二人の弟子が肉体をともなった復活した主と出会ったけれども、その主がもう一度、復活について説明してくださり、パンを割いてくださるときまで、それが主だと気づくことができなかった、と語ります。この弟子たちの体験は、イエスの臨在は肉眼からは限りなく「不在」に等しいものだった、ということを意味しています。彼らは聖書の説明を受けたとき、またパンが割かれたとき、「心が燃える」体験をし、そこではじめて主の臨在を知ったのです。これは、主の臨在とは主の霊が直接働きかけそのことによって「心が燃える」という体験を通してのみ、確認することができるものなのだ、ということです。すなわち、私たちにとって何よりも一番大切なことは肉体をともなったイエスと物理的に出会ったかどうかということなのではなく、聖霊・イエスの霊によって、「心が燃える」ような内面的な深いところでの復活体験をしたかどうか、しているのかどうか、ということなのです。そのことをこの弟子たちの体験は私たちに指し示し、また、促しているのではないかと思うのです。

<私たちの復活体験>

 そして、このような弟子たちの体験を私たち自身におきかえて思い起こして見るならば、かつて私たちもまた私たちなりに信仰に燃え、自分なりの信仰理解に基づいて希望を抱きつつ励んでいたのに、自らが信じていた導きへの予測が木っ端微塵に打ち砕かれ、信じていた事柄がすべて失われてしまったかのような、脱力感、喪失感、を味わったことが誰でもあるのではないでしょうか。そして、そのような深い悲しみ、やるせなさの中でそれでも教会に集い、親しい友人に自らの深い悲しみをつぶやきつつも、礼拝に身を漂わせるようにしてでも出席していたときに、礼拝の中で読まれた御言葉の一筋が、まるで明るく強い光のように、自らの心のうちに、差し込んできた、そして「心が内に燃える」ような出会いの体験をした、ということがあるのではないでしょうか。実にこれこそが、復活体験、復活の主と出会う、という体験なのだと思うのです。

<主の霊は連帯を生み出す>

 私たち一人一人、様々な課題や悩みを持っています。そして時には、その悲しみや憂いのゆえに胸ふさがれるような圧迫感に捉えられ続けることもあるのかもしれません。しかしどんな状態にある時もわたしたちが主に心を開き続け、主の霊を求め続けるならば、かつてエマオ途上において二人の弟子たちに起こった復活体験は、今日の教会においても、豊かに起こされるのです。そしてそのとき私たちは常に、いと小さく弱いものと共に歩んでくださるイエスの霊をより深く知るのです。そして自ら悩み、苦しみつつも、隣人と共に悩み苦しむ者とされていくのです。イエスの霊によって起こされる復活体験は、そのような連帯を生み出し、希望を生み出すのです。この種の霊に心を開いて、主の霊の力をいっぱいに受けて、それぞれの場へと遣わされてまいりたいと思います。

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