2005年4月17日 「闇を見つめる」

ネヘミヤ記2:11−18/エフェソの信徒への手紙6:10-20

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 『わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗黒の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。』(エフェソの信徒への手紙6:12)

<暗黒の世界の支配者>

 エフェソの信徒への手紙の著者は「わたしたちの戦いは、暗黒の世界の支配者を相手にするものだ」と語っています。しかし、現代に生きる私たちにとって、「暗黒の世界の支配者」とはいったい誰のことなのでしょうか、私たちはそのことをはっきりと認識しているのでしょうか。むしろ日常の忙しさにまぎれて、また、この世の価値観に強いられて、何かがおかしいと感じながらもついつい流されながら生きている自分を発見することがしばしばあるのではないでしょうか。

<いつわりの光の中で>

 毎日の新聞やテレビのニュースでは、様々な悲惨な出来事が報告されますが、また、すぐその後には、まるで、この世の悲惨な闇の状況を深く見つめるところから、ひきもどそうとするかのように、便利で、豊かな生活の情報や、商品のコマーシャルなどが賑やかに、また、おもしろおかしく伝えられています。
 そして、わたしたちは、せめて自分のまわりには、新聞やテレビで報じられているような、あんな悲惨な出来事が起こらないように、と心のどこかで願いながら、しかしその一方で、たえずおびえながら、生きているのではないでしょうか……、いや、そのように生きることを強いられているのではないでしょうか。
 そしていつか、そのような不安・おびえが自分の身の回りにも現実となって起こってくるのかもしれない、闇がだんだんと忍び寄ってくるかのように、実はそこまで来ているのかもしれない、やがて人ごとではいられなくなってくるのかもしれない、という緊張感を蓄積しながら生きている……、誰もがそのようなストレスを抱え込まされて生きざるをえない、そんな時代なのではないでしょうか。

<御言葉の光は闇をあばく>

 だから私たちにとって、まず必要なのは、白々とした光におおわれてしまっている闇をしっかりと自覚すること、見つめることなのではないでしょうか。
 そして、その闇は、まずしっかりと聖書に向かい合い、光の御言葉を見つめ、頂いていく時に、暴かれ、明らかにされてくるのではないでしょうか。
 たえず、目を覚まして祈り、真理、正義、平和、信仰、救い、御霊、について御言葉から学びつつ、光の武具として身につけていく時に、自らの内なる闇と、この世における闇が、共に暴かれ、明らかにされれ、さらに、その二つの闇に対して、どのように向き合い、身を処していけばよいのかがわかってくるのではないでしょうか。
 今朝、私たちは、そのような内外の闇を打ち破る神の武具を身につけ、真の主の平和を実現させていくために……、この闇の世に、癒しの光を証ししていくために……、新たに招かれ、そして送り出そうとされているのです。そのことをご一緒に深くかみしめていたいと思います。

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