2005年4月10日 「叫びつつ求める」

列王記上17:17-24/ガラテヤの信徒への手紙3:26-4:7

←一覧へ戻る

<イエスの夢>

 私たちの主、御子イエスキリストは、ありとあらゆる分け隔ての壁を取り崩そうとされた方でありました。3章の28節にあるように「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もない」、そのような対等な、真の平和を形作るために、アッバなる神に叫び、祈り求めつつ、命を賭けて闘い、しかし、そのために憎まれ、十字架へと追いやられていった型でありました。
 実に私たちの主イエスは、互いの違いを許容しあい、また、理解しあうことによって互いに変えられていくことを拒否する人間の罪を一身に背負い、自ら十字架につくことによって、いつか、その一人一人が悔い改めて新しい歩みをはじめ、ひとつになれることを夢見ながら死んでいったお方であったのです。

<イエスの霊と共に>

 私たち一人一人の心の奥深くに送り込まれ続けている御子の霊とは、このようなお方の霊なのです。つまり、私たち一人一人が自らの心の内深くにこの御子の霊を発見するとき、感じるとき、その霊はわたしたちキリスト者一人一人の霊となって、私たちを突き動かし御子の霊が叫ばれたように叫ぶことを促すのです。すなわち、かつて御子が「ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由な身分のものもなく、男も女もない」、そのような対等な真の平和を形作るために、アッバなる神に叫び、祈り求めつつ、命を賭けて闘った様に、その姿勢に習って生きることを促すのです。

<喜びをもって痛む>

 それはまず、今いるところで互いの違いを許容しあい、また理解しあうことによって互いに変えられていくことを志す、というところからはじめられていくのではないでしょうか。これは、小さな業であるかのように見えながら、実は大変容易ならざる大きな業である、ということがいえるでしょう。相手と自分との違いを許し、受け入れ、また理解しようとすることは、時間のかかる、また痛みを伴う作業である、といえるのではないでしょうか。しかし、私たち一人一人心の奥深くに注がれ続けている御子の霊に注意を向け、静かにその霊の動きに身をゆだねていこうとするとき、とても困難であると感じていたその痛みに、新たな意味が与えられていくのではないでしょうか。つまり、とても困難だと感じていたその痛みが、十字架上の痛みと通じ合い、そのとき、十字架上のキリストの御姿を実感を持って、自らの痛みとして味わい知ることができる、という新たな意味、新たな恵みがあたえられてくるのではないかと思うのです。そのようにして、私たちは許し受け入れることに伴う痛みをも恐れることなく、むしろ喜びをもって痛むことができるようになっていくのではないかと思うのです。そして互いに変えられ成長させられ、神による相続人・御国の相続人としてふさわしい者たちとされていくのだと思うのです。

←一覧へ戻る