2005年4月3日 「キリストという土台の上に」

イザヤ書65:17−25/コリントの信徒への手紙T3:10-17

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 『イエス・キリストという既に捉えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。』(コリントの信徒への手紙T3:11)

<教会の土台>

 10節においてパウロは、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。」と言っています。これは、コリントに宣教した時に、先ずそこに据えた、という事です。パウロは、イエスキリストという既に据えられている土台を大事に継承しつつ、それをより、明確にする形で、土台をコリントの教会に据え直したのでありました。

<私たち一人一人の土台>

 そして、教会に据えられているこの土台は、私たち一人一人の中にも据えられているのであって、信仰とは、その土台が不動のものとして私の中にすでに据えられている根源的なものなのだと実感を持って、繰り返し繰り返し認識し、告白することなのだと思います。そして告白しつつ、ことあるごとに私たちは、その事をより深く知っていくのでありましょう。

<私たちが生かされている世界>

 ところで、私たちが生かされているこの世界は、うわべの見事さや、表面的な輝きに満ちています。「より速く、より便利に」と、モノや金を追い求めることによって、また、そのような生き方を強いられることによって、確かに物質的には整えられ、私たちの生活は見事に輝いているかのように見えましたけれども、今は、もう、その頂点を越えて、今度は今まで獲得してきた物質的な豊かさを失っていくことへの恐れを、誰もが抱えながら生きている、そして、自らが依って立つべきところの根源的な土台を探し求めながら、生きているのではないでしょうか。

<この悲惨な世界の中で>

 そのような状況の中で、私たちはしばしば悲惨としか言いようのない経験をいたします。特に人間関係の破れを経験する時、私たちは大きな傷を受けます。しかし、そのようにどんなに自らの悲惨さを絶望しようとも、もう、この私にかまわないでくれ! 、と激しく拒否しようとも、それでもなお「あなたはかけがえのない存在だ……」と、「たとえ、この世の全ての人が見捨てようとも、あなたは神にとって必要な、かけがえいのない存在だ……」、と、私をつかんで離さない、それがイエスキリスト、というお方なのではないでしょうか。
実に、私たちの唯一の主であり土台であるイエスキリストは、そのように下から、しっかりと支え続けてくださるお方なのであります。

<キリストという土台を見つめて生きる>

 様々な失敗や破れを体験しつつもしかし私たちは、この根源に永遠に据えられている土台によって何度でも立ち上がることができます。私たち一人一人の唯一なる土台、この世の全ての教会の唯一なる土台、イエスキリスト、この方にしっかりと目を注ぎ、この方の御業をたずね求めていきたいと思います。そしてその御業に、今日からみなさんとご一緒に、仕えてまいりたいと思います。

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