2004年12月26日 「別の道」

マタイ福音書2:1-12/イザヤ書60:1-6

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ところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。(マタイ2:12)

<占星術師とヘロデの一派> 

 マタイ福音書二章一節以下のクリスマス物語は、乳飲み子イエスを挟んで、東方の占星術師たちとヘロデ及び彼に追従するユダヤの宗教指導者たちとを対照的に描がいている。この鮮やかな対照の故に、これら二組の人物像は、東方の人々は神の呼びかけに従順な信仰の人々を代表し、ヘロデ一派は神に耳を貸さない傲慢な人々を代表する。両者はまるでかけ離れた人間の姿と見なされてきたのである。たしかに両者は、その信仰の姿勢において、神の前に対照的である。まるで別人と言わざるをえない。しかし、そのことを理解した上で、私たちは、ここには、さらに見過ごせない他の一面があることを心をとめる必要がある。それは、かけ離れた両者ではあるが、その両者が、共に神の名の下に語り行動する信仰の世界に身をおいていたのだという事である。

<信仰の下に語りながら>

 先ず、ヘロデと彼の取り巻きの人々である。彼らは、東方の人々の知らせを、いま手にしている権力を脅かされないかという不安の中で聞いている。しかし、決してその不安やこれからの企みを露に見せない。むしろ、ヘロデの律法学者たちは古来の預言者のメシア預言から、見事な答えを引き出してみせる。さらにヘロデ自身は、メシアならば恭しく礼拝するつもりであると公言さえする。これらのことは言葉を換えていえば、彼らが、みごとな聖書の神学を語り、敬虔な信仰の行為を演じる人々だったことを示しているのである。ここにこのクリスマス物語における一つの注目すべき問題が浮かび上がってくるのではないか。神の独り子イエスへの拒絶は、無信仰者ではなく、信仰ある者と見られ、また自らもそれを強調し、神学や敬虔さを示せる人々において、明らかに浮き彫りになるということである。そして、そのような人々が、暴力を用いて、イエスとその家族を難民として国外に流浪する運命に追い込む。さらに、数多くの子どもたちの生命を治安維持の名の下に奪い、母たちを悲しみのどん底におい落とす。彼らは信仰の下に考え語り、パフォーマンスを示しながら、実態としては、暴力により頼むことを通じて、イエスを拒絶していくのである。

<別の道を示される>

 他方、東方の占星術者たちは、自らの本来の宗教的伝統ではなかったであろうが、ユダヤの信仰による神の約束の幼子に礼拝と心尽くしの物を献げようとする。そこには新たな信仰の世界に出会った人の喜びと感謝の姿がある。ところが、この人たちにとって、ヘロデ的な信仰の偽りに気づくことは簡単なことではなかった。物語の前半では、彼らはヘロデ一派の信仰の知識を借りざるをえなかったことが分かる。それを頼りに幼子の下にたどり着くのである。しかし、物語の後半、マタイは私たちの危惧を取り去る結末を伝える。マタイは神が介入されたという。東方の人々は、かつて星の徴に神の計画を知るという、いわば間接的な啓示を体験していた。ところがいまや、自らの夢において、いわば神のみ旨を自らの人格に直接に語りかけられる体験をする。その神の導きの言葉をマタイはこう記す。「ヘロデのところへ帰るな」。東方の人々は、ヘロデの道は神の独り子イエスに出会う真の道ではなかったのだとの確信を与えられたのである。それ故、「別の道を通って自分たちの国へ帰って行った」というのである。彼らの帰り道とは、この人々が神の独り子のメッセージに出会ったその原点に立ち戻っていったことを示しているのではないだろうか。

<平和の道として>

 二○○四年、私たちキリスト者は、失望のこもった疑いの眼差しで多くの人々から問いかけられてきた。全ての人がそうではなかったとはいえ、アメリカの多くのキリスト教徒が戦争政策政権を支持した姿は、世界の人々からけっして理解も信頼もされるものではなかった。そのことの影響が、私たちにも無縁ではなかったのである。平和と多様な人々の共存を真剣に求める人々は、次のように問わざるをえなかった。キリスト教徒は平和の友であるのか、それとも異質な他者を圧迫するのと引換えの独りよがりな拡張主義者に過ぎないのか。心あるキリスト者自身がそのことを自問せざるを得なかったと言える。私たちはそれらの問いに心を開き続ける一人でありたい。私たちの信仰とは本当はどのような信仰なのか、またキリスト者とは本来どのような人間であるのか。なによりもイエス・キリストの福音そのものが、私たちが真実であろうとすることを励まし続ける。そしてクリスマス物語もまた、選ぶべき道を求める私たちに答えようとしている。マタイは、東方の人々はヘロデの偽りの道とは別の道を選んだという。それはどのような道であったのか。それを暗示するかのように、ルカのクリスマス物語は、いまや幼子を迎えようとする老人ザカリヤの言葉を伝える。ザカリヤは幼子を指して言う。「高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(一・七八b〜七九)。ヘロデと決別した別の道とは、主イエスにあるかぎり、明らかに平和の道なのだということを見据えたい。そして、過ぎ行く私・私たちの一年間が、主イエスの平和の道に照らしてどのようであったかを深い反省と感謝の心で振り返りたい。そこから次の一歩に備えたい思う。

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