2004年12月19日 「平和のキリスト」

ルカ福音書2:1-10/ミカ書5:1-3

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今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになっ た。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。(ルカ2:11-12)

<メシアの降誕> 

 「救い主がお生まれになった。・・あなたがたは、・・飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つける」。クリスマス物語の核心をなすメッセージが、この言葉に響いている。ルカ福音書のクリスマス物語の一切は、救い主は飼い葉桶の乳飲み子というメッセージに行き着くための前奏曲。そうでなければ、この驚くべき知らせから広がっていく波紋のざわめきだと言っていいだろう。古代ユダヤ民族の信仰と文化の枠組みを用いながら、その枠組みを越えて世界の全ての人々、また全ての存在の救いとなる方(=メシア、キリスト)がここに語られている。しかし、ルカは、そのキリストについて、ローマ皇帝陛下のお世継ぎだとは言わなかった。また、ローマ支配を覆す偉大な軍事的英雄だとも言わなかった。この乳飲み子の成長後にそれを期待した人は少なくなかったが、ルカはその期待に応えていない。ルカが語ったのは、血統を誇る者でもなく、力に頼む英雄でもなかった。彼は言う。「あなたがたは、飼い葉桶の乳飲み子を見つける」。

<飼い葉桶の乳飲み子>


 飼い葉桶の乳飲み子とは、当時ローマに搾取されていた植民地ユダヤでも、よほどの貧しさ以外のものを連想させなかっただろう。だからこの描写の意味は明快である。この乳飲み子は、社会の片隅に貧しい人のひとりとして生まれ、また育っていくということである。しかし、ルカはこの貧しい人々の間に身をおいて生きる人、後のナザレのイエスこそ世界を罪から解放するキリストだと言う。このようなルカのクリスマス描写は、あらためて私たちをイエス・キリストとはどのような方なのかという問いに促すのではないだろうか。そして私たちが気づく所もまた明らかであろう。第一は、飼い葉桶に身を横たえる姿の中に示されていることである。それは、キリストは富める者たちに先んじて、貧しい者たちを連帯する友として選んだということである。それゆえ、貧しい人の苦悩はキリスト自身の苦悩でもある。第二に、乳飲み子の姿としてのキリストが示していることである。それは、キリストは権力的な力によっては立たない。権力の眼には無力と映る力によって立つということである。その力について適切な言葉がある。それを言ったのはパウロである。彼はこう言っている。「愛となって働く信仰」(ガラテヤ五・六)。この愛となって働く信仰の力こそ、イエス・キリストの生涯に満ちあふれていた真の力であった。

<平和のキリスト>


 その生涯を貧しい者の間にあって愛の信仰を生きた主イエスの姿を通じて現れてくることがある。それが第三のこと、平和のキリストである。ここでいう平和とは単に戦争がないということではない。イエスの思想を養ったイザヤやエレミヤなど預言者的信仰の伝統では、平和とは正義と公正とに裏付けられた民衆の生命あふれる生活である(イザ三二・一七、エレ六・一三〜一四)。そうである限り、それは決して富と権力をもつ一部の人たちのものではない。むしろ片隅に追われた小さい者、人知れず苦しむ者、貧しい者の平和であった。このことは、ルカのクリスマス物語には、もっとも明快に示されている。天使が「地に平和、御心に適う人に」(一四)と神に求めた時、そこには貧しい羊飼いと貧しい旅の夫婦と、そして乳飲み子が「御心に適う人」としていたのだということを忘れてはならない。ルカの物語において、キリストは真の平和のキリストとして賛美されているのである。

<キリストを迎えて>


 今日、私たちは、自分たちの世界が、如何に預言者的な平和、キリストの平和から遠いかを胸の詰まる思いで感じている。とくにルカのクリスマス物語のメッセージを聴いたいま、私たちは、何を受けとめ、理解し、信じて、祈り、また生活に生かすのか、深く神の導きを求めたいと思う。その第一歩とは何か。ここに平和のキリストに向けられたあるキリスト者たちの応答の言葉がある。ブラジルのキリスト者たちの言葉である。これらの人々は、近年までのブラジル北東部の凄まじい飢饉や貧困、グローバル化した世界での貿易不均衡が原因となったブラジル経済の破綻の中で、貧しい人々の間で働いてきたキリスト教徒たちである。その中には、この言葉を日本語に訳した佐々木治夫神父もいる。佐々木神父はブラジル奥地の貧しくまたハンセン病に苦しむ人々の間でおよそ半世紀もの間働いている。その中で、この言葉に出会い、母国日本のキリスト者に伝えたいと願ったという。その言葉はルカのクリスマスのメッセージにこう答えている。「神の恵みである救いは、人間の参加を要求します。それは改心とその改心を根気よく続けることを通して実現されます。天使たちのメッセージを聞いて羊飼いたちは、すぐにベツレヘムへ行き、自分たちが受けたメッセージに参加しました。その後、神を賛美しながら家路についたのです。」この家路についた羊飼いたちの心には何が宿っていたであろうか。また彼らの姿を語るブラジルのキリスト者たちの心には・・。その心には、きっと平和のキリストが宿っていたに違いない。わたしたちもまた同じ平和のキリストを一人ひとりの心に迎え入れようではないか。

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